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まほろばだより−トピックス−





「熱烈歓迎 内蒙古興安盟経済文化交流貴賓団」 6月17日(火)に、
北海道支社でもある当社に札幌視察で立ち寄られた内蒙古・興安盟の
楊書 記長ご夫妻、陳銀行長ご夫妻、阿尓山市の劉市長、万佳社宇社長
等々御一行。


 6月、内モンゴルからまほろばに政府の賓客が来店された。  
内蒙古から塩や重曹を輸入している木曽路物産の鹿野社長がお連れしたのだ。(まほろばは、木曽路物産の北海道の総代理店)

 わずか半日の交遊であったが、血の遡る所同じためか、まるで旧友に会うが如きであった。

 

ささやかなもてなしにも、いたく感銘され、後日招待を受けた。  
何時の日か、まだ見ぬモンゴルへの地へ訪れん事を約束してお別れした。  

その後、招待されるも日程の都合がつかず、改めて8月に「重曹生活」CPP(クリーン・プラネット・プロジェクト)のNPOの方々と彼の地を訪れる事になった。  
こうして木曽路物産の鹿野社長とお付き合いして8年余り、漸く夢の第一歩が実現した。  

 しかし、その時、漠然たる想いの彼方に、何を期待し、何があるかは全く分からなかった。
ところが、予期せぬ所で、大いなる答えが待っていたのだった。






1994年3月に新設された「万佳(ワンジャ)
食品有限公司」。 一同整列して、出迎えて
下さった。市役所横の一等地に在る。

 全行程3,000km のモンゴル縦断の旅、しかしそれでも3分の2の距離しか走っていない。  
帰国後、しばし腰痛に悩まされて綴ったこの紀行記は、旅程を相前後する。

 「万佳(ワンジャ)食品有限公司」は、1994年3月に設立された興安盟・烏蘭浩特(ウランホト)市の中心部に在る。
市街面積は 23平方km、人口は約22万人。吉林省と外モンゴルに隣接する。

戦前満州の隣県で日本人が多く居留していた。農業が主産業で、山菜・薬草の宝庫である。

 万佳食品の宇社長始め、トウ副経理との再会を歓び、会社従業員一同の心温まる盛大なる歓迎を受けた。

 そこで、目の当たりに見た中国の懐の深さ、鹿野社長の広遠なる志に、驚嘆することになる。


ウランホト市周辺と「葛根廟惨劇地」。
ハルピン、チチハルも近く、満州引揚者の方々は 懐かしく想うだろう。

 1945年8月、このウランホトの街には、満蒙開拓団4.000人が居住していた。

 しかし、極東での権益確保のため、日ソ不可侵条約を破ったソ連(現ロシア)軍が進軍開始。
日本人は寺院「葛根廟」を目指して避難を始めたが、日本に反感を持つ地元民に馬や車を奪われ、徒歩で廟に逃げこもうとした。

その寸前で、ソ連軍戦車によりほとんどの日本人が虐殺されてしまったのだ。

逃避行の中、大勢の子供達が犠牲になった。この写真の大多数がソ連軍の砲弾の雨に消えた。


 その中で、母を虐殺されて一人生き残った中国残留孤児の「立花珠美」さん(中国名:烏雲/ウエン)こそ、日中両国共同テレビ番組「大草原に還る日」のモデルその人であった。感動的児童書として「烏雲物語」も発刊された。

 鹿野社長は、この逸話に感銘し、毎年この立花さんと共に、モンゴルの砂漠を緑化しようとして13年間、植林活動をされ、寄贈されている。

 実は、出身地山形の叔父も、また満蒙開拓団で同地に渡られた。

その叔父から
「内モンゴルなら無農薬の野菜が出来る。 塩、重曹、にがりなどの天然素材も手に入れられる」とかつて教え聞かされていたことを思い出し、古巣に帰るようにしてこのモンゴルに渡って来たのだと言う。

   原田一美著:「烏雲物語」徳島県教育委員会
   出版『私は育ての親を見捨てることは出来ま
   せん。 死んでもできません』ホルチン砂漠
   に生きた中国残留日本人孤児の生き様。
   植林された砂漠が数年後森林に変貌を遂げた。
   鹿野社長は、1億円以上を投じてこれに協力さ
   れた。

 
 そこには偉大なる遺産があった。
あの満蒙開拓団が作った灌漑用ダム。 琵琶湖の2倍もある察楽森水庫(ザラシンダム)。そこは遠浅で、水温が温かく、米作が戦前より盛んに行なわれていたのだ。

 まほろばでも以前、沖縄久米仙の「原酒泡盛」が大好評だったが、実はこのジャポニカ米で醸造されたものだった。
モンゴル族は遊牧民で水田に入らず、漢民族は、畑作が中心であった。



烏雲先生自ら植林活動に励む

 しかしモンゴルの朝鮮族は日本語を知り、米を作るので、彼らに任せて稲作作りが続けられていた。
鹿野社長は、これまで築き上げた事業と財産を全て投げ打って、全く畑違いの有機栽培の米作りを始めたのだ。

 それは、誰の眼にも狂い沙汰としか映らなかった、その氏の足跡は後号で記したい。



「烏雲の森」に植林したポプラの苗木も10m程に

 

 

万佳食品有限公司の玄関前にて。 左・鹿野会長、中・宇海龍社長、右・私。

 
 ここウランホト市の「万佳食品有限公司」は、工場敷地1万坪、大モンゴルの自然の天恵と日本から伝統的且つ先進的醗酵技術と設備を導入し、最新式の管理システムを用いた夢の会社だった。
そこでは味噌、醤油、酢、腐乳、漬物、乳酒等7品種30種類の品目を製造していた。  

 創業当時の 年前、鹿野社長は日本での資本参加を呼びかけ、味噌・醤油・米屋など 名の事業参加があり、日本独資の会社を創った。
それが「天外天」であった。
その天外天と味噌のマルマン社、当地の興安盟東方経貿の3社が共同出資して農産物栽培、貯蔵、生産加工、研究開発、貿易が一体化した「万佳食品」の日中合弁会社を作ったのだ。
天外天が万佳の親会社として、鹿野社長が会長として就任した。
一億円の総資本金で、内蒙古の外国企業第一号となった。
そして、そこで造った商品は100%日本側が買い取ることから始めた。

 ほとんどの合弁会社が撤退する中、将来も崩れない日中の確固とした信頼互助関係を築き上げた。
その先見性と手腕、大陸の要人をも呑み込む鹿野社長の人徳と器量の大きさに驚きを禁じえない。

 安い人件費を求めて各国を渡り歩く功利第一主義の企業が横行する中、何処までもモンゴルの大地と人々を愛する心が、現地の人の心を打ち、何時までも互いが潤う循環と還元の原理が、親睦の絆を強くしていった。
講話室での会見と会談。 この様子は一部始終カメラに収められ、全中国に放映される。

 洗いざらい日本の全ての技術を持ち込み、工場設備方式も社員教育法も公開した。
万佳の進出で、町中の料理がレベルアップし、市民の収入が高まり、生活が豊かになった。
「お互い様」の日本的精神が、中国の人々の心を掴んだのだ。
共存共栄の街造りに、日中は合体したのだ。  
2,500名を案内したが、当初電気もなく、ホテルも無い状況で、日本からウランホトまで2日がかりだった。
ここ2・3年で、戦後日本が経済復興でジャンプした以上に急成長した。

 北京オリンピック以来急速にインフラも整って来た。
山と農地と畜産、そして手付かずの地下資源の宝庫による経済発展は、今後さらに目を見張るであろう。
当時、蒙牛社の株一万円が今では1,000倍、農家の現金収入二千円/年間が、100倍にもなった。 その牽引役の一端を、万佳食品が担ったのだ。

 今では万佳食品は「自然、安全、健康、栄養」をコンセプトとして、日本に1万トン余りの味噌を輸出。
更に醤油は中国・東南アジア主体に、味噌は中国、日本に輸出して、世界各国に拡大しようとしている。
5,500トン/年間の本醸造醤油の設備を導入し、輸出から国内販売への販路拡大を目指し、生産・貿易の他、更に多角的グループ会社として発展を遂げている。

 






万佳食品の工場一部。非常に清潔に保たれ、
塵一つもない徹底性に驚かされる。

 訪ねた工場は、2006年7月に新設されたばかりだ。
 '94年、か細くも日本への味噌輸出からスタートした当時、糀屋の柴田氏、マルコ醸造の小木曽さんらが、ここで自ら日本から持ち込んだ麹で味噌造りから手がけたのだった。  

 そして、足踏みした経営沈滞を脱するため、国から有能な宇海龍氏を要請して社長に迎え、人材教育、財務管理を徹底して事業を多角化することで業績が急伸した。

 スタッフに、内蒙古師範大学化学教授・王世特尓(ワン・バートル)先生や東京農大の片岡博士等、頭脳集団を集結させ食品開発や技術指導に当たった。

 このワン先生から今回色々とご指導を戴いた。
重曹や麦飯石のこと、更にチーズのこと。
万般に亘って詳しく、その博覧強記に驚愕した。
次号紹介したい。

 更に、日本から各社の若い人材が現地に赴いて生産指導や日本企業への営業に奔走した。  
この万佳食品の生みの親ともいうべき天外天は、他に岩塩・天然重曹のブームで業績が鰻登りになり、それと呼応するように万佳食品は年々躍進し、食品文化発信拠点として世界に視野が広がっている。


 

中国緑色食品AA級認定書とJASの 有機認定証明書。 それらのプレートが会社 前に掲げられている。

 「有機栽培のみそ」という漠然としたイメージで、日本の工場を想いながら案内された。  

しかし、そこに徹底した原料の厳選と管理、製造ラインの実態を目の当たりにした時、日本の遅れを見たのだった。  

その材料となる大豆と小麦。
日本一国の農林水産省・有機JAS認証を取るのでさえ困難なのだ。
日本は使ってよい農薬があるが、外国では許されない。


 いわば、日本の認証は甘く、日本の有機JASでは輸出出来ず、世界に通用しないのだ。 そんな遅れを取っている日本。
ここでは、何とその困難さえ飛び越えて、世界の五カ国の認証を取得していた。
ここまでの商品は初耳であり、明らかに世界に向けての戦略であることが伺えた。

日本のJAS、米国のOCIA、ECのECOCERT、そしてアフリカ、ユダヤの有機認証を獲得していたのだ。
無論、中国緑色食品AA級認定も。
日本の指導の下に、中国がこの体制を整えて行く。

まさに、これは鹿野社長一流の発案なのだ。



「オリボタ有機農場」は、AA級緑色食品認定、日本の有機JAS認定を取得し、
さらに4カ国の有機認証を取得した。世界初ではなかろうか。


 今回、その農場視察のスケジュールがあったが、大雨のため泥濘が出来て残念ながら中止になった。
ここの地は、天地開闢以来、一度も農薬や化学肥料を使ったことがない清浄な大地だった。
そこに鹿野社長は惚れ込み、 16年前、ここで有機米を作り始めたのだ。

それがドキュメント「内モンゴルで米を作る男」と題してTVに放映された。その線上に、この味噌造り、醤油造りがある。
 
 98年、ウランホト郊外に「オリボク有機農場」と「豊碩農場」の960ha の広大な農地を取得して、有機大豆、水稲、小麦、菜種、蕎麦等を栽培し、こだわりの味噌造りに取り組んだのだった。





原材料の大豆など手選別工程。
全員で200名。驚くべき手間と時間と労働力を費やす。

 

最初に案内された分析検査室。これにも眼を剥くほど驚かされた。
一軒の醤油味噌の蔵元で、これだけの設備・人員を配しているところは有り得ない。
あっても一般慣行品を製造する大手企業数社しかないだろう。

ここは全量有機味噌だけの製造である。
分析センター並みのラボ設備である。  
ここの衛生管理、品質管理のシステム造りは将来を見込んで、周到な計画性の下に、実施されたものだ。  

そして、次に通された穀物の選別作業。なんとこれを手作業で行なっていたのだ。  


 「どうして、機械化しないのか?」と問うと
「日本の最新式の選別器を使ったが、それでもクズが完全に取り除けない。
それで人海作戦で選別している」と。

  60人以上の女工さんが、黙々と作業に励む。
味噌や醤油の製品物は穀類の形がなくなるので、微少のクズが入っていても全く問題はないと考えるが、どうしてそこまでやるのだろう、と思ってしまう。
ところが、そこが決定的に違うのだ。
微動だに忽せにしない、その徹底的な商品造りへの姿勢が社会的信用、世界的商品へと押し上げてゆくと考えている。
本物造りとはそうい、眼に見えない所を誠実に行う事なのだ。

 日本の味噌製造の蔵元一行が視察に来て、「ここまで、やるか!」という感嘆の声を上げたという。


 食品の中国問題で騒然としている裏側には、こうした対極に、何処にも真似出来ない徹底した製品が生まれている国でもあるのだ。

 決して侮れない。
何時の間にか、日本は如何なる分野においても、何れ遅れを取る事となろう。
中国製品不買運動や自国の食品偽装問題に汲々している間に、真っ直ぐに真実に眼を向けている人がいることを忘れてはならない。

 そして味噌工場、そこは日本の各味噌屋からオーダーされた特注仕込みの味噌を、各レシピ通りに作り、貯蔵し熟成している。

国内各地の味噌の種類がこの一工場で全部まかなわれている。
ために、各部屋ごとに完全に遮断され、酵母や微生物が他の仕込み室に飛ばないようにされている。

 麹味噌、麦味噌、白味噌、西京味噌、金山時味噌等々。

原材料の相違、仕込みの違い、熟成の長短、それぞれの特有の味噌が一箇所で出来ると言うシステムを構築した姿に舌を巻かざるを得なかった。
 そして初期醗酵の終わる段階で、その一部が日本の恵那市の味噌蔵に移される。その伝統の赤杉樽で2年寝かされ熟成されて国内で販売される。

  それが、まほろばで「有機味噌」として販売されているものなのだ

検査分析室・商品開発室が何室もある。
毎日、研究開発と品質検査に余念がない。


責任者は女性で李研究室長。また別機関で農薬は360項目をチェックする。世界中からの要求に対応して分析出来る。


各有機味噌6種の味覚テスト。





味噌仕込みのステンレスタンク。
一樽ずつに全て記録した詳細タグが付けられている。
 そして、このシステムが、醤油蔵にも反映され、漬物や他の商品にも応用されている。  

  そこに、日本から入った有機製品の切り口が中国大陸で、今後燎原の火の如く広がって行くだろう。

この日、鹿野社長は、まほろばを「万佳食品有限公司・北海道連絡事務所」として栄誉ある任を与えてくださったのである。


毎日、蒸釜、製麹、煎煤等の製造機械類の稼動が続く。
完成した味噌は、まほろばでも販売している。
上段:
天外天味噌(白・赤)
各1kg入 840円、

下段:
有機生みそ
(白・赤)
各750g入617円




国会議事堂と同じ風格ある国務院。
 そして、それを実証するように、さらに広大なる計画と実行が既になされていた事に、またまた驚かされたのだった。

 それは内蒙古から車で480 、吉林省長春。そこは、かつての満州帝国の首都・新京だった。

 中共により「偽満州帝国」として展示されている日本の国会議事堂と同じ造りの国務院の中に入ったが、背筋に悪寒が走るほどの邪気に満ちていた。
悲しい日本と中国の歴史を想い、その当時生きた人々の冥福を祈った。

 その長春に企てられた味噌・醤油大工場は6万坪の敷地に、第一期1万坪の工場建設を皮切りに、6期まで建てられて完成する壮大なものだ。

 ここでは、今後中国国内向けに製造するという。はるか中国キッコーマンもこれには及ばない。  

 どうして、このような事が、鹿野社長の下で出来るのか、不思議でならなかった。
しかし、その壮大な話は、まだ五分の一も話してはいない。


見渡す限り広大な敷地。向こうの林が見えない位だ。ここに最新式の醸造巨大工場が現れる。




1階がお土産屋になっている。
2階に至る階段、そこは底知れない怨霊の場という暗い気が漂っていた。柱の向こうには、旧満州国軍事部旧址の壮麗な建物が見える。

国王が着用する黄色のモンゴル服を着る鹿野社長。
チンギスハーンの像の前にて。実に像に似ている。
これを私に下さった。(首都フフホトのホテルにて)

 
 今回の旅は、単なる旅ではなかった。  

 中国全土と日本国内で放映するドキュメント製作のため内蒙古放送局の撮影隊が派遣されて旅を共にした。
(10月1日、「内蒙古で活躍する日本の企業家」と題して、全中国に放映され、何れ日本国内でも番組が組まれる)  

 鹿野社長の並外れたスケールと壮大な夢の一部を見たに過ぎないこの十日間。  

 それは、別世界に舞い下りた、と言うより他に探す言葉が見つからなかった。          
      (続く)


 
 
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