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まほろばだより−トピックス−
 

 


 2011年3月11日に東北関東を襲ったあの地震の日以来、日ごとに見聞きを重ねる被災の様々に、多くの皆さまと同じように言葉に言い尽くせない思いを抱き、被災の地の皆さまに思いを寄せる日々を過ごしています。

そしてまた、「自分に出来ることは何だろう」との思いの中に居られる多くの皆さまに、日ごと心を重ねる一人でもあります。  

そうした日々の中、胸の中に静かに二つのことが浮かんできました。

 



 ひとつ目のことは―、   

  昨年生誕100年を記念し上映されたマザー・テレサ映画祭の折に目にした数本の中のある映画にて、心に残った女性のことでした。
手がかりは「欧州の方であったこと」だけで、映画の名前もその方のお名前もわからなかったのですが、幾つかのキーワードを頼りに調べている内に、その方がジャクリーヌ・ド=デッカーさんという方であることがわかりました。
 そしてまた、映画にて描かれていたことを記されている文章を目にすることが出来ました。 抜粋になりますが以下にご紹介をさせて頂きます。

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 マザー・テレサの活動を考えるとき、普通、見落としてしまいがちなのが、その霊的支えとなっている「マザー・テレサ国際共労者会」のことである。  

 この、そもそもの始まりは、ジャクリーヌ・ド=デッカーさんとマザー・テレサの出会いにある。

1948年、ジャクリーヌさんは、スラムに入って貧しい人々に奉仕しようとパトナで看護技術を修得中のシスター・テレサに会った。
シスター・テレサと同じ志をもっていたジャクリーヌさんはその話に共鳴した。


 
 
 神の愛の宣教者会の修道女となり、貧しい人々に奉仕したいと願ったジャクリーヌさんだったが、まもなく病気にかかって入院、検査の結果、脊椎の進行性萎縮麻痺と診断された。

萎縮の進行を止めるためには、脊椎の移植手術をしなければならないのだが、大変な痛みを伴う手術である。  
 
 そこでアントワープに帰り、手術を受け、入退院を繰返す日が続いた。
ジャクリーヌさんがマザー・テレサに書いてくる手紙にはいつも、体さえ元気だったら献身してシスターとなり、貧しい人々のお役に立ちたいということばかりだった。

ちょっと動いただけでも鋭い痛みが走り、首には特別なギブスをつけ、コルセットで体を固めているジャクリーヌさんの病状に、マザー・テレサもいつも心を痛めた。

そこにある日、大変なインスピレーションをいただいたのだ。
それが1952年10月20日付けのジャクリーヌさんへの手紙に書かれている。  

「その後、快方に向かわれていることと思います。いつもあなたのことを考え、あなたの近くにいたいので、あなたの痛みを思いながら仕事をしています。  
今日の手紙を読めば、きっとあなたも喜んでくださると思います。
あなたは宣教者会に入会されることを望んでいらっしゃいますが、精神的に入会するというのはどうでしょうか。仕事を分担するのです。
私たちの仕事はスラムで働くこと、あなたの仕事は苦しみを受けることと祈りです。私たちの仕事にはあなたのように肉体的苦しみを負い、そこでなお祈って支援してくださる方が必要なのです。
私の精神的な姉妹となって、宣教者会の一員となってください 」
 
   
「喜んでお受けします」
というジャクリーヌさんの返事にマザー・テレサは喜び、返事を書いた。

ここで初めてジャクリーヌさんを「第二の自分」と呼んだのだ。
自分に代わって痛みに耐えてくれ、祈ってくれるかけがえのない人と。
「・・・シスターはこれから誰でも“第二の自分”をもつことになります。
外で活動する代わりに、祈り、痛みを感じ、考え、手紙を書く“第二の自分”をもつのです。あなたは私の“第二の自分”になってくれました。神に感謝します。
ゴッド・ブレス・ユー」
   
 
マザーはどんな活動にもジャクリーヌさんが祈りで支援してくれていることを感じ、お礼と励ましの手紙を欠かさなかった。  

『マザー・テレサ――愛の軌跡』(日本教文社)の著者ナヴィン・チャウラ氏は同書で、アメリカのある患者からジャクリーヌさんに届いたこんな手紙を紹介している。  

「私は現在30歳です。22歳のときに多発性脳脊髄硬化症にかかりました。それ以来、何回も入退院を繰り返しています。  
お医者様は、もうすぐ車イスが必要になり、ゆくゆくはベッドから起きられない体になるだろうとおっしゃっています。


 しかし、 ー 
ベッドに寝たきりでいる間、私は他の人たちを励ます手紙を書き、祈りを捧げます。

そうやって数えきれない時間を過ごしてきました。そして8年が過ぎました。
たとえこの世が私を受け入れてくれなくても、私は神の恩寵を十分にいただき、神のご意志を感じています。私は仕事ができないけれど、健康な体の人が仕事をするために、祈りを捧げます。
そして私もその場に参加していたいと願っています。マザー・テレサのために祈ります」  



   このようにベッドにあって苦しむ人々がネットワークをつくって、マザー・テレサのために祈っているのだ。
これがマザー・テレサのグループの強さだと思わざるを得ない。

(神渡良平著『マザー・テレサへの旅路』(サンマーク出版)より)


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 この中には、マザー・テレサが “第二の自分”であるジャクリーヌ・ド=デッカーさんをどれほど大切にされていたかということが、1979年のノーベル平和賞の授賞式にジャクリーヌ・ド・デッカーさんと共であったこととしてあらわされていました。  


 そして、ふたつ目のことはー、
 

 山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』の最後のシーンのことでした。
「黄色いハンカチが、どうぞ一枚ありますように」と願いながら見つめた最後の情景は私の想像を遥かに超え、『寅さん』と同じように、可笑しみと悲哀が重ねられた味わい深い映画のこの最後のシーンが心に深く沁みた記憶が、今も心の奥に残っています。

 この二つのことが一緒になって胸の中に浮かんできたのは、地震から1週間が過ぎてのことでした。
それまでの間、心には喪章で包まれるように黒い色が広がるばかりでした。いつもとは異なる時間の流れの中、それからまた数日が過ぎ、『幸福の黄色いハンカチ』に旗めいていた沢山のハンカチの後に心に浮かんできた色のリボンを、車の内ガラスにそっと貼ってみました。  

それは、「桜」の花を想っての色でした。


 



「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。」
と始まる新渡戸稲造の著書『武士道』の巻末の言葉―

 


― しかしその力は地上より滅びないであろう。

― しかしその光明その栄光は、これらの廃址を越えて長く活くるであろう。  

その象徴とする花のごとく、  
四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、  
人類を祝福するであろう。  

百世の後のその習慣が葬られ、その名さえ忘れらるる日到るとも、  
その香は、「路辺に立ちて眺めやれば」  

遠き彼方の見えざる丘から風に漂うて来るであろう。

― この時かのクエイカーの詩人の美しき言葉に歌えるごとく、  
いずこよりか知らねど近き香気に、  
感謝の心を旅人は抱き、 歩みを停め、帽を脱りて  空よりの祝福を受ける。 

 の如く―







 都道府県を越え、国を越えて寄せられる多くの方々のたくさんの思いと祈りが、これより北へ東へと日本列島を染め抜く桜の花のように、被災の地の皆さまの心を桜色に染めてくださいますように・・ 

そしてなお、その残香が帯のように長く連なり、これからの皆さまを守る、心の防波堤になってくださいますように・・  

今は皆さまと共に深く深く祈り続けます。
   
   
   
   


 
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