懐かしい建物が新しくレンガの館へと姿を変えたとき、駅前通りに面した入口の上に大きな鐘楼が建ちました。
その鐘の音がとても好きで、一日に数度だけ鳴り響く音を聞きに駅前へ幾度も足を運びました。
月日が流れ、幼い頃から親しんでいた名はやがて消え、2009年の秋、ついにそのデパートは建物ごと駅前から姿を消して行きました。
百三年の歴史を閉じた「五番館」が明治39年(1906年)、「五番館興農園」という名で始まったことを嘗て初めて知ったとき、聞き覚えのあるその名に、もう一つのお話と連なる様々が思われ、それらが絡まるようにして腑の中へゆっくり落ちて行くような気がしました。
駿河湾の向こうに富士を臨む地、静岡県 沼津市 西浦久連
「興農学園」。
日本ではじめての種苗会社「東京興農園」を設立された札幌農学校一期生・渡瀬寅次郎の遺言により、内村鑑三や新渡戸稲造たちの協力を得て設立されました。
大正15年(1926年)に67歳で亡くなられた渡瀬寅次郎への追悼の言葉として、内村鑑三は
「君は農を以て身を興し、農を以て国を益せられました。
私は旧札幌農学校の同志を代表し、ここに渡瀬寅次郎君の名をグルントウイツヒ[グルントヴィ]の名が丁抹に残る如く、我が日本に残したいとの希望を述べます。
これ亡き君に対し、君の遺族と友人とが尽すべき最大の義務であると信じます。」と述べています。
八年ほど前、今は亡き方より「読んで下さい」と賜った分厚く重い本の巻頭に、この本を出版するに至った経緯とその方の思いとが綴られていました。
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