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まほろばだより−折々の書−
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「いい日にいらっしゃいましたね。知っていていらしたのですか?」   「えっ?」
 「お義父さんの誕生日と知っていて、お越しになられたんだと思ったわ……」
自然農法の世界的大家・福岡正信先生は、大正二年二月二日生まれ、今日で九十五歳になられたと言う。

0-1テストで最高の機会、と予測が出たのは、その事だったのだろうか。 前日、醤油の老舗蔵元、小豆島ヤマヒサさんを訪問した際、四国に渡る機会はめったにないから、随分ご無沙汰している愛媛・伊予松山の福岡先生の所を訪問しようと思い立ったのだ。

 

 

 

みかん山の麓にあるご自宅。以前の旧宅には何度も足を運んだ。

 これまでに来たのは、弟子入りを希望した二十五年前と十年前の粘土団子講習会、十五年前は家族旅行だった。
お会いするのは、これでもう最期のチャンスかもしれないと思った。
案の定、先生は、床に伏せておられた。昨年十月に、小脳出血で倒れられ、生死の境を彷徨って、もう一月までと医師から言い渡されていたそうだ。

 

 

 

先生のお父様はこの地の村長をされていたが、63歳で逝かれた。息子(福岡先生)が自分のいうことを中々聞かなくて困られたという。その反骨精神が代々引き継がれて、今の雅人さん(64歳)、孫・大樹さん(34歳)も、親の生き方とは違った方法で歩んだ。しかし、農業から離れることは無かった。

 今年正月に家に戻られてから、食欲も出て急速に回復されたという。生来の生命力の強さが頭をもたげたのだ。 言葉もご不自由で、記憶も失われたが、風貌はしっかりした往年の翁のそれであった。

会話は、専ら息子嫁の李枝子さんとであった。
先生の奥様が亡くなられてから、一家のお嫁さんとして、ご主人の雅人さんを助け、先生をお世話し、畑やみかん山を切り盛りし、研修生の面倒や指導をして、八面六臂の活躍をなさっている。あの難しい福岡先生のお嫁さんとして仕え、これまでやって来られたのは、並の賢婦人ではない。

 李枝子さんが「北海道で自然食をされているまほろばさんですよ。お義父さんに言われて、自然食の店を始めて、もう二十五年にもなるのよ」と、伝えると、「世界の自然食を考えなくてはならない……」 とつぶやかれた。

 

 

 

仲睦まじい雅人・李枝子さんご夫婦、夫唱婦随でここまで来られた。ふすまは、雅人さんの妹さんの婿さん、小倉浩二(70歳)さん、雅号「無一」さんの遊墨画が素晴らしい。
 前後三十分ほどの対面の中、これが福岡先生から、最後に私に伝えた遺言のように思えた。

 商売を始めた時、祝いに贈って下さった手作りの絵葉書に地産地消のイメージ図が描かれ、 「良いものを安く提供出来れば必ず成功する…」
と、言葉が添えられてあった。
 

 

 

昭和59年7月1日に、西野6条2丁目に移転して初めて店舗をもって 開店した折、 先生から励ましの お言葉を戴いた。
「折角店を始められたのでしたら、ご健闘下さい。 自然食といっても、本物は安いはずですから、 安く仕入れて安く売れば成功すると存じます。
老婆心までに・・・・」

 

 

 

 
  言ってみれば、先生の自然農法は、自然食品の普及でもあったはずだ。  
先生の影響で、自然農法を志し、農を始める前の資金稼ぎとして始めたのが自然食品店「まほろば」だった。

 それが、二十五年を経て基礎が出来、今漸く農業部門が独立出来るようになって来た。
志を家内が継いで、先生の不耕起を学んで実践したのではなく、不耕起の自然農法に失敗し、有機を極めて行ってまた不耕起に辿り着いたのだった。別な歩みから、生産性のある自然農法への道が開かれつつあるのだ。

 家内の師は桜沢如一先生で、食養を学び、私の師は福岡正信先生で、自然農法を志した。そうしてそれを結びつけたものが、大村恵昭先生の0―リングテストだった。

創建当時の自然山の八角堂で講義を聴講していたことがあった。今は主無き荒れ果てた講堂になっていた。太く逞しい柱だけは、しっかりと立っていた。
 

 

 

 まほろばの現在の骨格をなしている健康栄養理論と自然宇宙哲学は、ここを源流としているのだ。

 私は若い頃、求道の末、自然農法の百姓を志したことがあった。
しかし、その時は、先生の自然山が荒れ、受け入れが閉鎖された時だった。その時は絶望的な思いに沈み込んでいたが、今考えると、それは天恵でもあった。
みかん山の反対側の山に、先生の自然庵が数箇所ある。今は主なし庵として、自然とともに風化している。
 

 

 


「二点間の最短距離は、曲線である」という。  
この自然食品店経営という回り道のように見えて、学ぶべきところが多いどころか、そこに真実があったように思われる。
俗世間での生き方、その当時、最も忌み嫌っていた金や物のやり取りを、あえて強いられた事が、世の中の仕組みや、人情機微を知る為に必要な期間だった。  
それがなければ地に足の付かぬ観念の怪物になっていただろう。  
この大地に根ざした基盤があってこそ、天を仰ぐことが出来たのだ。


 天と地、聖と俗、空と実、表裏一体である事を、この生身の身体を通して知らされて来た。今日、単なる物売りに終わらない姿勢は、その時に生まれたように思えるのだ。理想と現実の狭間で苦悩しつつ辿り着いた結果が、今のまほろばであった。
それは、主義主張や、イデオロギー闘争でもなければ、宗教問答でもない。渾然とした自然人世一体感から生まれ出たものなのだ。

 
 

 

 

晩柑や最後の文旦も採り終り、甘夏だけが残るだけだ。しかし、その量はすこぶる多くある。しかし、近郊の農家も廃業全滅といった感じで、「有機農法」だから生き延びられた、という。

いやじ現象(連作障害)で、みかんの老木を切り倒し、別種の作物を植える。今は、孫の大樹の手でライム、ブレッドオレンジ(タラッコ)、グレープ・フルーツ(ホワイト・ルビー)、ヘイジョア、アボガド、マンゴーなどの南国果物を植えている。これは、温暖化対策でもある。昨年は旱魃で、樹がダメになるところだった。
写真は、ヘイジョア。

 

 

 

この30度以上もある斜面をどうして運んだ か想 像を絶する。 何時も、腰が痛いという。 農家の宿命だ。この急斜面を収穫したみかん を担い で運ぶのは大変だった。それを、こ のモノレー ルを敷いて仕事がすこぶるはか どり、大変楽に なったという。
急勾配の絶壁をユンボで整地している。伊予柑の老木を倒し、キーウイフルーツを植えるという。世代も代わり、山の様相も変わって行くのだろう。
 

 

 

お孫さんの大樹君も今年35歳。高校生だった子がこんなに大きく逞しく。親子三人でお祖父さんの山を守ってゆく。
 
 

 

 


 福岡先生とこれほど、三十年近くもお付き合いをさせて頂いたご縁は、きっと徐福の先祖の呼び合わせなのかもしれない。徐福の長男の姓を福岡にしたとの伝えがある。徐福の終焉の地が、祖父が生まれた富士の邑でもあったことから、きっと同じ血が流れているのかもしれない。  

 帰り、松山空港まで送ってくださった長子・雅人さんとは初めて近しく長く話すことが出来た。実に素朴な優しい人柄に、福岡先生の盛徳を偲ぶことができた。
親子三代にわたる血筋は、先生の自然農法の夢をきっと実現させるのだろうと想いつつ、四国の地を離れた。


 
 

 

 

みかん倉庫。農協に土地を貸していたが、 農協が 建てた倉庫も要らなくなり、そっくり福岡さんが 貰い受けたという。果物にとって冷蔵庫はなくて はならぬものだ。
 乾燥機
 

 

 

田んぼに近所の出面さんや研修生の若い女の子が働いている。米麦交播の二枚の田んぼで、ひゆ葉の雑草を取り、料理する。また十字架類の菜花がなっている。その野生種を今度から送ってくださることになった。
 
李枝子さんは、まほろばに送ってくれる玉葱や空豆を直播きで混植されて、寒い冬畑で育てていた。
 

 

 

田んぼのあぜに菜の花が咲き乱れている。今、入荷して販売している。
みかんの木々の間に大根が野生化して生えている
 

 

 

稲わらを返した田に麦の若芽が出ている。その間から、ひゆ菜の雑草が生える。これも食せば美味だ。

無雑作にネットをかける丈で虫に食われない。
椎茸の原木をみかん山の山道の端に立てかけている。
 

 

 

   
 

 

 

 
 

 

 

四代目勝久さん、二代目正氏も健在。小豆島で20軒の醤油蔵元は合併している中、独りヤマヒサさんは他と組みせず独自の道を歩んでいる。
 
 

 

 


 今回、瀬戸内に浮かぶ小豆島のヤマヒサさんへ、三年前作って頂いた再仕込み醤油「古醤」を再び仕込んでもらうための交渉に渡った。  

 外目には作って売って、としか映らないであろうが、前回・今回ともその数量の販売予測やその他の調整が、如何に複雑で大変な事か、思い知らされた。
前回すべてを売り尽くした実績を鑑みて、あながち無謀とは思えないが、あらゆる条件がこれを阻んだ。
 

 

 

古醤
 何せ、一年半先の出荷、一年間の販売期間、そのプレッシャーは計り知れないものがある。まほろばの力量としては、大き過ぎる賭けであり、勝負でもある。

 それでも、基本的調味料はオリジナルブランドが欲しいところなのだ。0-1テストで一から十まで納得の行く一押し、二押しのまほろばブランドを自信もって販売したい。  
 

 

 

昭和7年創業、蔵付き酵母が棲み付く蔵内は微生物の宝庫。ステンレスやFRPの樽にはありえない天然醸造、自然熟成だ。
 しかし、一回のロットが二樽、七千六百リットルであり、残念ながらまほろば一社では一年で販売出来ない。だが、念ずれば花開く、である。その半量を引取ってくれるという卸先が、あらかじめ現れたのである。

 ところが、さらに原料である小麦と大豆価格の大幅な値上がりという不運に見舞われた。
ここで今まで考えても見なかった原材料入手困難という問題に新たに直面することになった。

 小豆島への道々、何となく心が重く、気乗りしない感じで旅路についた。  
こんな時には、何となく占い半分で0-1テストしてみる気分になるものである。  
ところが「良き縁が出来る」と出るのである。今、とてもそのような前兆がない。

 

 

 

もう樽を組む職人が居なくなった。
今作らせば、一樽500万円するという。 さらに締める竹組みをする職人が見当たら ない。今は、廃業する蔵元から収て仕 込み量を増やしている。

 


オーガニックJASの蔵は別棟にあり、櫂に至るまで厳格に分けられる。

 

 

 

 しかし、それは、結果的に当たったのかもしれない。
訪問先で、とある人から国内で大豆と小麦を大量に、しかも有機で作っている生産者がいることを教えられたからである。 金沢の人であるという。
次の日、折角四国まで来たのだからと、俄かに福岡正信先生への訪問と、次いでその金沢の生産者への訪問を思い立った。



ヤマヒサさんのもう一つの顔。それはオリーブ栽培。オリーブ油と茶を加工出荷している。
 

 

 

  前もって計画していた訪問先をキャンセルし、福岡先生の訪問を終えるやいなや、ぎりぎり松山から大阪に向かい、これまたぎりぎりで大阪から金沢行きの特急に飛び乗った。

しかし、アポイントが中々取れる時間もなく、術もなかった。
というよりもその住所も電話も知らなかった。そこで車中で手を尽くしてそれを聞いたが通じない。

小泉首相時代、オリーブ園が農業特区に選ばれたヤマヒサさん、首相官邸に招かれ新春放談。
 

 

 

 

 金沢に着いて駅から自宅や会社に電話しても留守であった。  
「ああ、何のためにここまで来たのか。0-1テストは外れたのか?自分は一体何をしているのだろうか」 と、しばし駅で途方に暮れてしまった。
その時である。
何と、その方から電話がかかり、今大阪からそちらに向っているから、しばらく待って欲しいとの声であった。
何という絶妙なタイミングであろうか。


 
 

 

 

小京都といわれる城下町・金沢。情緒的な街並みが残り、懐かしい。そんな街の干拓地・100haを開拓し、有機農業にこだわる井村さん。これからの日本農業を舵取る大きな逸材でもある。
 

 

 

 
 金沢から離れた干拓地は、夜中で見られなかったが、ともかくその人物と会うべくして会えたのだ。
この人こそ、有機の小麦・大豆生産量日本一を誇る、井村辰二郎さんだった。 短い時間の邂逅ではあったが、再び三月に北海道で会う約束をした。スケールの大きい農業を実践し、実際その結果を出している若き志士である。翌日は早朝帰らねばならず、その農地は訪ねられなかったが、充分なる手応を戴いた。

 無謀で計画性の無いことが、計画通りに行動するよりも、結果的に計画通りというようなことは、人生にはよくあることである。  
何か「随縁・奇縁」という言葉が一番似合いそうな旅であった。  
それは「縁に随えば、奇しき縁に遇う」という。  

まさに、その随う縁とは、0-1テストでもあった。

 
 

 

 

国内産の求める声が高まる昨今、「醤(ひしお)の郷・小豆島」は、益々注目を浴びる。 週刊ビッグコミック「スピリッツ」52号 美味しんぼ第588話「食の安全E」に ヤマヒサ登場!!ヤマヒサさんの醤油の作り方、蔵の風景が詳しく紹介された。
 
 

 

 

   

 

2008年2月8日記

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