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まほろばだより−折々の書−
 

 

 


 

 

 




 

 

 


 

 

 


 
福岡正信さんが、逝った。

 現実のことと思えない。存在自体が時空を超え、「仙人然」とした精神的な実在だったため、肉体の不在という現実が直接、響いてこないのだ。

 福岡さんが残した科学的・精神的遺産は、それほど魂の奥深くにある。
 「自然農法」は県内より全国、さらには海外で理解され、そして評価された。

 「不耕起、無肥料、無農薬、無除草」。
 それは二十歳代のおり、福岡さんが悟った「自然の摂理」の実践。  
技と技のはざまには、あまたの哲学が練り込まれている。
故に、氏の農法から技術だけを抽出しての実践は、時に困難を伴った。

  福岡さんの実践は農法にとどまらない。
その延長上に完成した「粘土団子」を携えて飛んだ国は中国・シルクロードなどアジアやアフリカ、アメリカとほぼ全世界に及ぷ。  
 この砂漠緑化の切り札が評価され、一九八八年にはアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞した。

 福岡ドクトリンは、氏の自然観に技法を織り込んだ実践哲学でもあった。
あえて解釈すれば「自然科学と社会科学の融合」という、人類最大の課題でもあった。

 この融合理論を理解できる人が数えるほどしかいない現実を考えると、氏の存在は少し時代を先取りしすぎたのかもしれない。     




 
 だから自然農法や粘土団子が、自然科学・社会科学両分野を含めて真に、正当に評価されるのは、少し後世のことになろう。

 「わら一本」が、農薬と機械を使った製造工場ともいえる姿になった日本の農業を「革命」するにはついに至らなかったゆえんだ。 

  氏を慕い、取り囲んだのはだから、氏の無限の可能性を「感覚的に」かぎつけた人だった。
 福岡さんの農園には全国、各国からあまたの「信者」が集い、その理論に共感・感動し、人柄にひかれた。  

  その風ぼうととっつきにくさから、出会いには信念が必要だった。しかし懐に一度飛び込むと、深淵(しんえん)さに吸引される。農と自然、人間の高慢さから未来への食料戦略まで、氏の話題の水平線は、凡人にはかなたにあった。

 福岡さんの世界はむろん、氏を中心とした秩序体ではあったが、ピラミッド型ではなかった。むしろ、氏を緩やかな核として、あらゆる多様性を秘めた集団としてあった。  

  だから、氏の残した遺産は、時代によって形を変えつつ、未来に受け継がれる。
 
 その意味で環境の時代の自然科学者、思想家、哲学者として希少な存在だった。
              
               (地方部・西原博之)
 

 

 







 

 

 


 

 

 




 

 

 

 京大・農学研究科で福岡正信研究をされている将積睦さんから電話がかかって来た。  
「福岡先生が今朝お亡くなりになりました」  
 その時、とうとう来るものが来てしまったか、という悲哀と、2月呼ばれるようにお邪魔したのが、最後のお別れだったのかと、しばし呆然としていた。
「巨星墜つ」。
 
 20年前、岡潔先生が亡くなられた時、関西に居ながら奈良にお参りに行けなかったことが、後年まで悔いて心の尾を引いていた。
そのため、福岡先生が亡くなられた時は、必ず駆けつけて、心に区切りを付けたい、とかねてから決意していた。  

 ところが、お盆の16日、航空券の手配をしても全く取れない。  
Uターンラッシュのピークで、松山行き、東京経由も、関西経由も皆無だった。もう、断念せざるを得なかった。  

 次の日の17日はお盆の最後の日で、モンゴル旅行で行けなかった恵庭の実家に墓参りに車を走らせた。  
 高速の車の中で、突然「どうしても行きたい 」と叫ぶ自分が居た。早速、経理の斉藤さんに、一度は諦めていたチケットの手配を再度、依頼した。  
 すると、しばらくして「ありました  松山行きが一席」  
これは、天のご配慮に違いない。  
 母との墓参をすぐさま済ませると、Uターンして会社に帰り、用意もそこそこに午後の便に飛び乗ったのだった。


 

 

 




 

 

 




 

 

 

 そこには、自分の人生の中で区切りをつけ、福岡先生との訣別をしたいとの内的要求があった。  
 

 そもそも、この自然食品店を興したのも、福岡先生との邂逅だったのではないか。  

  それまで東洋思想、ことに仏教や儒教・道教を学んできたが、自分にとって、それは観念的な概念でしか消化されていなかった。
そんな苦悩煩悶の中で、出合った本が「わら一本の革命」であった。
世界中の青年にどれほど影響を与えたかもしれないこの本に、私も又、突き動かされた。  

 そこには無や虚という老子の無為の東洋哲学が、田畑の上で実証されている事実に驚かされたのだった。為さない、という行為以前の行為が、どういう事で、どういう結果なのか理解出来ていなかった。観念が現実として証明され、躍り出た事に新たな地平線に光を見出した思いだった。  

 それが、農業、それも自然農法というものだった。 そこに志した。
しかし、研修生に任せた福岡先生の自然山は荒れて、復興のため閉鎖したところだった。断腸の思いで、諦めざるを得なかった。

 

 

 




 

 

 

 北海道の実家に帰って来た私達二人は、人に頼らず、自ら農業が出来るまで、生産物と消費者を繋ぐための一番近い道、自然食品店を自ずと選んでいた。  

 

 

 

 世間的な視点から自然を観、生きていく手段として商売を選択し、平行しながら農業を実践する道を辿った。 

 25年前、恵庭で開墾した畑があった。それが人生の再出発だった。
店も軌道に乗って来た17年ほど前、母方の園業を営む実家の畑が輪厚にあり、そこで再び挑戦が始まった。
福岡先生の所に粘土団子の研修にも行き、輪厚で実践し、試行錯誤を重ねていた。  

 又先生の世界の砂漠緑化運動にも参画し、お客様にも、その粘土団子の種子集めに協力をお願いし、愛媛に送ることも続けていた。



 

 

 




 

 

 




 それから5年ほど経って、本店の近くの小別沢に新天地を見出し、開墾を始め今日に至っている。

主に家内が農業に、私が経営をと分担しながら、細々ながら始めた農業を続けた。  

 そこは、既に趣味や嗜好で行なう農業ではなくなっていた。それは、経営という生きて行くための農家としての収入を得るという現実と、何処までも理想を追うという夢が錯綜する実践の場でもあった。

 

 

 

 

 

 今日8ha の本格農家として営農する中で、さまざまな事を考えさせられ、そして見えて来たことがある。 これはあるいは、農業をやり、また商売をしながらだからこそ、明らかになってきたことかもしれない。


 

 

 




 

 

 

 粘土団子を実際作ってみて、撒き、そして収穫していった。
しかし、そこには正直、生産現場としての明日が見えてこなかった。

 一粒の中に、様々な種子が混在して、あたかも野草の様にここかしこに様々な野菜が芽生える。その発生の時期は一定しないし、当然耕作しないために形状は大小さまざまで個性のあるものばかりであった。
 そこで収穫すると言っても、自給自足の生活を営む一家族にはよいであろうが、その生産物をもって売り買いする商品とするには、余りにも現実離れしていた。

 

 

 

 効率を求めるべきではないであろうが、やはり人を使う、物を用うるとなれば、そこには経済行為としての採算勘定が入らざるを得ないのだ。

 元々農業とは、生きてゆく手段で、これで家族を養わなければならない生業でもあるはずだ。



 

 

 

 

 種を撒き、育て、穫ること自体、人為的行為であることは免れがたい。
それが機械的播種であろうが、土団子を撒こうが、人間の収奪で、生産行為であることには変わりない。

 現実に、農作業としてこの方法が、少なくともこの日本の営農現場で成り立つか否かは、明々白々の事実であった。
まほろば農園でも、非効率というより収量や計画性が立たないということで、研究はするものの断念せざるを得なく、当の福岡自然農園でも実施出来ていなかったし、これを継ぐ意志は誰にもなかったのではなかろうか。

 また、自然園で直に習った学徒は、各地に散っても、遂に粘土団子で生計を立てる者はいなかった。わずか、思想哲学の実証の場として自然山で野菜の野生化が試みられていた。


 

 

 




 

 

 




 この粘土団子のアイデイアは、ことに砂漠化している大地にこそ、有効ではないかと考える。

 雨期に広範囲に撒いて、一斉に発芽させ、日照りが続かない雨天の間成長を続け、そして一帯が緑に覆われる。
そこが森林化して緑が雨を呼ぶ天候をもコントロール出来る循環を形成してゆく。

 実際、東南アジアなどの熱帯地方での成功率が高いと聞く。 インド・アフリカ・中国・ギリシア等々の世界各地において試みられたが、その成果がどのようであり、またどのように継承されているか、その後聞いてはいない。
 

 

 

 その地域に即応した絶妙なタイミングとある程度の規模、つまり種子の収集と人の手配、そしてミキサーやヘリコプターなどの機械力も必要とするだろう。
それでも、自然農法か、という疑問も呈するであろうが、それは緑化運動としてのダイナミックな方法論であり、また自然回帰への気付きでもあり、許されることであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 農業は自然とともにあった。
だが、農業は自然と人を乖離させてしまった。  
それは、神とのタブーを破ることから始まった。

 農業革命、産業革命、そして今情報革命。  
人類史における三大革命は、進化という美名の下に、何をもたらせたか。

 かつて人類は、野山をかけて狩猟や遊牧の民であった。  
何時しか、その野山を開墾して種を撒き、収穫する事を覚えた。長い何十万年もの人類史から俯瞰すれば、それは数百年、数千年のごくごく最近の事でもあったのだ。  

 人の手によって栽培されるようになった穀物は、備蓄することも出来、それによる食物の安定供給は人口を爆発的に増加させた。それと共に、土地や穀物という私有財産も発生し、その多寡により、貧富の差も生じるようになった。さらに多くの富を築くものは、奴隷や小作人を抱え、上下の主従関係を持ち、格差も生まれた。
 そして隣地・隣国を奪うための戦争が始まり、略奪殺戮する事が日常となり、歴史となった。その元は何か。

 その元凶こそ、人間が所有という概念、私有財産という甘味なる欲望を持ったことだ。それは迷妄の始まりであり、争いの火種でもあった。  
皮肉にも、それは自然と最も近いはずだった農業が、事の始まりだった。

 それまでは、食物は天の賜り物を預かるのみであった。 
しかし、人間が自ら食を得ることを覚えてから、皮肉にも人類は自然から離れて行った。そこに人類の悲劇がある。天地万物に人の所有物は一つとて無い。
より生産物を多く得るために、工夫を重ね、技術が発達した。
地を耕し、農薬をやり、化学肥料をやり、草を刈り、ますます多収穫となり、ますますそのテクノノジーは進化した。  

  その結果、土壌は汚染され、作物は異常になり、人は健康を損ね、世界は疲弊し、環境は破壊され、再び元に戻すことは絶望的な崖っぷちに今、人類は立たされている。  

   

 

 

 

 

 その偽りの進化を逆行するように、福岡翁は不耕起、無除草、無肥料、無農薬の自然農法の道を提唱し、人間の無思慮・無分別、無為自然の法を伝えた。  

 そして、更に粘土団子をもって、自らの農の究極、農の完成として世界に掲げた。それは農を知る者をして訝しがらせ、農家をして反目させるものであった。
翁は何を目指したのか。
それは「農以前」を目指したのだ。

 農業が、この地上に発祥する以前に帰ろうとしたのだ。一切の思慮分別を絶った粘土団子こそ、究極の農以前の農、為さざる農であった。  
 

 

 

 それは、既に田畑無く、農業という概念を越えた所の天の賜りし風景に帰したかったのだ。
 渾然として一体なる自然のありように戻したかったのだ。  
 

 結局は、そこまで立ち戻らねば、その人為人作を絶たねば、見えてこない地球の原点だったのだ。今の世を起死回生の宿業から回復させられない、との大いなる判断だったのだ。  

 この一見、気違いじみた農法は、実は時代を先取りした革命的な発想であり、大道だった。
必ず、翁の言わんとした先の時代が来るであろう。

 

 

 




 

 

 

 私においては、粘土団子のアイディアは、農業より浄水器のセラミック造りに展開されたのではなかろうか。  

「この粘土団子の中にこそ、宇宙があり、究極の農法である」と言われた福岡先生の言葉が意外な所で実を結ぶ。
この一粒の粘土団子の中に、宇宙があるならば、宇宙をこの一粒に押し込める事が出来るであろう、と考えた。

 自然農園で学んだ粘土の作り方、ミキサーを回転させて仕上げる方法が、道立工業試験場の造粒科へと足を向わせたのだ。
鉱物粉と水分の量と入れるタイミング、パン(ミキサー)の回転速度と角度、それを熟達するには根気と年季がいる。

  たかが造粒、されど造粒であった。
そして、その一粒の中に、あるゆる情報を詰め込んだのだ。




 

 

 




 粘土団子に草、果物、野菜あらゆる植物を混在させるように、一粒のセラミックには、動・植・鉱物あらゆる物質のエッセンスが約1000種類は入ったであろうか。

 それは全宇宙の生命体がひと粒に凝縮し、一粒万倍で全ての水に拡散されるように設計されているのだ。
福岡先生からの教えは、この浄水器の実践哲学の中に集約されていった。
 

 

 




 

 

 

 通夜の9時頃、伊予市の葬儀場に着いた。  

 既に、通夜の式は終わり、遺体は部屋に移され、家族親族の方々が和気藹々と集っていた。 
  先生の遺体の眠る棺に通された。そのお顔は静かな安らぎに満ち、白く美しい光を放っていた。


 

 

 

  日本の国の宝を失い、その落胆の大きさに嘆き悲しむべき予想に反し、家庭的な雰囲気の中で落ち着かれていたのは不思議な感じがした。

 長子雅人さん、李枝子さん夫婦をはじめとして、四女の皆さんが各地から集まっておられた。
皆さん知的で端正な風貌、福岡先生似の方ばかりのように思えた。  

  福岡先生はこういう家族に囲まれながら、ご自分の生きたいように生きられたのだろう。皆さんに見守られて来た様子が見えて、難しい話からは想像し難い、ほほえましいものを感じた。

 お嫁さんの李枝子さんに「これまで、大変ご苦労されたのでしょう」と労いの言葉をかけると、「いやいや、お祖父さんはとっても扱い易い子供のようでしたよ」と微笑まれた中に、長年のご苦労が偲ばれた。  

  介護にも、「もう、そのまま何もせんでくれ」と言われ、自宅で従容として一人静かに逝かれたという。
医師は「自ら死を覚悟した見事な大往生だった」と述懐した。
死に様もまた、生前の素晴らしい生き様と同じであった。

 

 

 




 

 

 




 

 

 

 以前何かの機会で、「徐福会」という会合に福岡先生が呼ばれて講演された、と聞いた事があった。その縁起にさしたる興味はなかった。

 しかし、エリクサーの由来を調べて行くうちに、私の祖父の出自が山梨の富士吉田明見村であり、そこの本家に「富士古文書」別名「宮下古文書」があることを知った。
その編纂者が二千二百年前、中国から日本に渡来した徐福であり、そこを終生の場とされたという。  

  その徐福の長子こそ、姓を福岡として今日まで来たと徐福系図に書き記されてあった。  
その時、初めて福岡先生との遠い因縁を思ったのだった。  

  徐福は道教の仙士であったというから、先生の中に無為自然の老子を彷彿とさせるものがあったのかと自得したのだ。  
  ことに徐福が、広く稲作を伝播した因縁を考えれば、自然農の祖として今日世界に敷衍させた業績と似る。

  かつて縄文の原始時代をおくっていた当時の日本人にとって、徐福が渡来上陸して先端文明を持ち込んだことは、驚天動地の大事件だったに相違ない。

 

 

 




 

 

 




 

 

 

 次の日の午後1時半からの葬儀。

  朝からお参りして、ご家族の方々と色々お話する事が出来た。
その中で四女美空さんのご主人小倉さんとは話が合い、昼食を共にした。  

  彼は、先生のご本によく登場する水墨画の本人であった。長くオランダに在住していた。同じ地に棲むトーマスに福岡先生の偉大さを聞かされた。

トーマスこそ、ヨーロッパにおける福岡先生から学んだ自然農法の継承者だった。
それで、小倉さんは福岡先生に嵌ったのだった。そして、何時しか四女とご縁が結ばれた。
その童心の季節で画かれた童心絵は、福岡先生の大のお気に入りだった。
NHKの「こころの時代」での会談の背に在る襖絵がそれである。


 

 

 




 

 

 




 葬儀には300名以上の方々が日本中からお参りに来られた。

 春秋社が発刊しているDVDが生前の師の面影と語り口を伝えている。
そこに、東京から地湧社の増田正雄社長が参列された。
あの「わら一本の革命」は氏が柏樹社時代に出版したものだった。

 増田さんの存在なしには、この本は世に出なかったであろうし、世界20カ国に翻訳される事もなっただろう。
口述筆記した頃、東京の喫茶店で半日以上しゃべり続けた話など生前話に興味が尽きなかった。
 

 

 




 

 

 

 最後に、遺族を代表して雅人さんの長子で、孫でもある大樹君の弔事が読まれた。

 粘土団子の講習会に参加していた頃、彼が農業高校の学生だった。見違えるほど逞しくなっていた。
そして、おじいさんを想う孫の素直な言葉にみな感動した。



 

 

 


 爺ちゃん、孫の大樹です。  

 僕が子供のころ、よく爺ちゃんの布団に潜り込み、色々な昔話をしてくれましたね。  
堂ヶ谷に連れて行ってもらってよく遊んでくれました。  

あの頃の堂ヶ谷の風景、山小屋の囲炉裏で作った定番のうどんの味 今でも僕の心に焼き付き、あの柔らかな空気を思い出します。  

晩年のお爺ちゃんは、世界の行く末を危惧し険しい顔が多くなっていましたが、病床の中、喋る事が覚束なくなり寝ている時間が長くなった頃、体は辛かったでしょうが、今まで見たことの無いほど「綺麗な眼差し」「綺麗な表情」をしていましたね。  

人の最後がこれ程まで穏やかに、綺麗に感じたことは有りませんでした。  

不謹慎かも知れませんが、爺ちゃんの死は僕にとって、悲しみより感動の方が大きく感じられたほどです。  

「あの福岡さんのお孫さんですか?」きっと孫は皆、幾度と無くこう聞かれたと思います。 
少し恥ずかしく、気まずくも感じながら「はい、そうですよ」と、やっぱり誇らしく感じたものです。  

気まずく感じるのは、爺ちゃんの大きさの前に、自分の小ささを感じてしまうからでしょうね。  
きっと爺ちゃんは、世界中の人の心に粘土団子の様な種を蒔いて来たのでしょう。  

色々な種類の種が入った団子、その人の心に適した種から発芽し、やがては豊かな森になっていく種です。
私たち 人の孫の中にも爺ちゃんの粘土団子は埋まっています。  

まだ小さな芽しか出ていませんが、「福岡さんの孫ですか?」そう聞かれても、気まずく感じることなく「はい」そう答えられるよう、爺ちゃんの種を立派な森に育てて行きたいです。




 

 

 



 

 

 


 

 

 

 式後、「最後に自然山の庵を訪ねたいのですけど、行きませんか」と、増田社長をお誘いした。
すると、社長が参列していた矢島三枝子女史も一緒に行きましょう、と誘い、三人で「小心庵」に向った。
矢島女史は、晩年の翁に通訳として付き添い、海外への粘土団子撒きのボランティアに奔走された人である。  

 着くと鬱蒼とした木々の枝枝が絡み合う山道を掻き分けて進むと、そこに荒れ果てた小心庵がひっそりとあった。
おそらく、体がご不自由になられてからは庵には住めなくなり、また研修生も住まず、荒れるに任せたのであろう。  
しかし、そこを復興して、先生の自然農法の普及を、という事の発想は到底思い浮かばなかった。それは、荒れるに任せる・・・・・それはそれでいい、いや、それが相応しいとさえ思った。

  これで、福岡正信は終わり、そして永遠に福岡正信は生きた、と感じた。この鬱蒼とした山に、その魂は帰し、再びと帰らぬであろう。それでいいのだ。 自然農法も、粘土団子も、それは福岡正信一人のものであった。
誰も、本当は真似出来ず、真相を学べずのものだったのだ。また、それで良かったのだ。若き日の見性の悟りに付いて来た農法であり、その形の農法を真似ても、遂にはその真実を知る事はないだろう。

 私は、根っからの俗人である。
その俗人は俗人としての生き様をしよう、とこの山に戻って、そう決意した。人は、その人らしく生きればいい、という決心に漲った。  

  最後に、昨年記したブログの、私の福岡先生へのオマージュ以上の言葉はなく、今の私の心境を表す言葉が無かったし、見つからなかった。おそらく、私自身も今生、生を終える時も、従容として同じ心境で、この世を去りたいと思った。

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

あれからもう25年以上の月日が流れた。
20代で読んだ『わら一本の革命』
これによって、自己変革の火を、内に起こした青年が世界中の至る所に輩出した。

60年代後半から 70年代にかけての学生運動がうねった後の虚脱感から農に走った人や、自然に回帰しようとした若者が少なからずいた。


 

 

 

私は、別な意味で、
内的な流浪の果てに自然農法に辿り着いた。

それまでの一切をかなぐり捨てて、
翁の山に入ろうとした。
しかし、83年から山を閉鎖して、
青年達の受け入れを拒否されていた。

それが、私の運命の分かれ道だったように思う。


 

 

 

 

私としては、脱俗して農に聖なる道を求めようとした。


しかし、天はそれを許さなかった。
むしろ、全く反対の俗なる商いの道を選ぶ事を強いられた。
その当時の自分は、
半ば絶望と悲嘆の中にあった。

しかし、それ以前の15年と、それ以後の25年の、観念と実践の中で、天が明らかに見せてくれたものがあった。

人情機微の中にも、自然微妙の世界があり、
世俗凡塵の底にも、神仏の風光が輝いている、
という気付きだった。

 

 

 

 

これは、自然の中では分からなかった真実であり、
また、世間の中だけでも理解出来なかった現実であった。

翁の「無為自然」は、「有為自然」の中でなければ、
姿を現すことはなかった。


 

 

 

何故、この世があり、この人があり、
何故、物があり、生活があり、苦悩があるのか。
人の世の悲しみや哀れ。
それを知ることなしに仏の慈悲も身をもって心に染みわたることもなかろう。

泥に塗(まみ)れてこそ、蓮の白さの意味が、ひときわ尊くもなる。

悟ってから入俗する道が、かつてあったかもしれないが、
迷いに迷って、出俗するほうは、反って味わい深い。
為すことも、為さざることも、過ぎ去れば彼方。
自然も、また人工も、極むれば同じ。

 

 

 


一字の水茎の跡にも、
真如が如意自然(じねん)として、
躍り出ることさえある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 


 

 

 

地獄も極楽も、何でもありの まほろば。
ここでの多くの人々との出会い、
自家農園での営み、オリジナルを創造すること、
商いするという意味、取引という駆け引き、働くということ、人を使うということ、お客様とのやりとりの心遣い、
さまざまなアクシデント、
いろいろな対応・・・・・・

聖と俗、欲と無欲・・・
混沌として宇宙のよう。

ありてあり過ぎる事々、
働けど働けど働き足らざる仕事。
小さいながら、世界と自然の縮図が詰まっている。

野菜や魚や食品を見抜く眼力が養われ、それを通して自然の奥を垣間見る。

詰まるところ、
無為というも、
自然というも、
我が心の中にあることを知る。
自然の中に身をおいても、
自然が見えぬことも・・・。
世間の中に心をおいても、
世間が見えぬことも・・・。


 

 

 


共に行き来して、重ねて苦労して、
最後に、無為も有為も 渾然と溶け合う時節を知る。
人の悲しみに涙せぬ人の自然は 寂しい。
自然の理(ことわり)に感ぜぬ ものは、
人の何故生まれて来たかの秘密は明かされぬだろう。

自然といって、自然にとらわれず、
世俗といって、世俗もまた愉しみ、
どちらも、どちらでもなく、
悠々と適々と生きて
この世を去りたいものだ。


 

 

 




 

 

 

今冬の店先には、
相も変わらず、
翁のみかんが、
静かに置いてある。



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