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まほろばだより−折々の書−
 

 

 

 

 

 

 

 

 
 今回、再び無限心球「結」の箱書きのため京都に向かった。  
 その数日前、まほろばのソフテリアで働いていた松岡さん(愛称:アグネス)が、帯広のパンの「満寿屋」さんに就職するとの報告で来店された。そのとき、「満寿屋」さんでは石窯で焼こうという計画があって、その準備に追われているという。
 

 

 

 丁度、私もまほろばで薪の石窯で焼いたパンを広めたいな、と夢見ていた矢先の出来事であった。

 すると数日して「石窯造りの師匠は竹下晃朗さんといって、京都に住んでいらっしゃいます。ご紹介しますよ。」と「満寿屋」さんの二代目杉山雅則専務が電話を下さった。

巡回用パン石窯でナン作りを小学生に見せる杉山さん。(写真提供:十勝毎日新聞社)

 

 

 

「渡りに船」とは、このことだろうか。何という絶妙なタイミングであろうか。それは、京都に行く前日のことであった。  

 トータルヘルスデザインさんでの仕事を早々に終え、雨の中比叡山の麓、修学院に向かった。おりしも京は、祇園祭りの最中であった。 訪れたときは蒸し暑い、いかにも京の夏を想わせる情趣が街中に漂っていた。    

 

 

 


京都の竹下晃朗氏製作の自宅石窯。今後、低価格で自主製造出来る石窯普及活動が拡がるであろう。


 竹下晃朗さんからは、石窯の「てにをは」を教わりながら、その大きな特徴を教えて戴いた。
 他のオーブンは、加熱構造の輻射熱(遠赤外線)型と熱風対流型に二大別される。ともに乾燥空気を前提している。
 しかし、蒸気が籠った石窯は高温蒸気の熱作用で焼く第三の焼成法である。適正な焼き床温度と充分な蒸気を籠らせることで、石窯は他に類のない能力を発揮するという。
 表皮がパリッと焼け、しかも生地がフンワリ柔らかくなる「高温蒸気焼成」法の石窯パンは、パンの理想であり、古典であり、未来でもある。
 

 

 

 そのための基本的な窯造りの手ほどきを受けながら、レンガの入手法や積み方等など、短い時間に懇切な説明を受けることが出来た。一回の面識で、有難く勿体無いことである。
 

 

 

 
 帰り際、奥様の信子様から 「あなたは、北海道のどこの出身?」 と訊ねられた。  

 「恵庭です。ご存知ですか。」 と答えるや、  

 「私、そこに住んでいました。」

 「えっつ!」
 
 ホントにびっくりしてしまった。 この京の外れの山裾に、私の田舎、恵庭に住んでいた人がいたとは、その偶然に驚いてしまった。さらに、

 「斉藤牧場にいました。」  

 また、また、  「えっつ!」  

 これはさらに、度肝を抜かれるほどだった。

 「何と言うこと。……あの斉藤秀雄さんの弟さんの斉藤さんですか?」
 と、まさかと思ったが、確かめてみた。  

 「そうですよ。」  

 「私、探していたんです。その斉藤牧場を………」
 と、唖然となりながら語った。  


 

 

 

 斉藤秀雄さんとは、あの小澤征爾さんなど、今世界の第一線で活躍されている演奏家を育てられた音楽家・教育者としてつとに有名な方である。その門下生が集まってサイトウ・キネン・オーケストラを結成しているのは知られるとおり。指揮者の秋山和慶、チェロの堤剛、ヴィオラの今井信子、ヴァイオリンの潮田益子……等々、錚々たるメンバーである。一人の指導者によって、これほど粒揃いの音楽家が生まれるものであろうか。死後も夜空の星のように煌く弟子たちに慕われて、年一度、松本に世界中から集まって、先生を偲んで演奏会を開く。指導者冥利に尽きるというものだ。  
世界のマエストロ「小澤征爾」氏。カラヤンやバーンスタインにも師事したが、氏の原点は、あくまでも斉藤秀雄であり、今も尚、敬愛し思慕する彼の謙虚で、師の恩徳を忘れない人間的深さに音楽と共に世界は魅了される。(写真:「バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」 指揮:小澤征爾 演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ レーベル: ユニバーサルクラシック(C) 2001 UNIVERSAL MUSIC K.K.
松本で開催される「サイトウ・キネン・フェステヴァル」のサイトはこちら

 

 

 

 その斉藤さんの弟・武彦氏も、また傑物であった。  
 斉藤家の次男で、酪農を志した。斉藤家の当主秀三郎は、明治時代の英文法の大家で一流の教育家でもあった。長男秀雄氏を欧米に留学させたように、次男武彦氏にも本場欧米の酪農法を学ばせた。
  帰国後、理想の土地として北海道、しかも私の故郷恵庭を選んだ。それが、大正の終わり頃であったという。

 

 

 

 


恵庭渓谷の三段の滝、他に白扇の滝などがある。武彦氏もこの風景に眺めいったであろう。

 今でこそようやく開けた恵庭だが、当時は戦前のことである。選んだのは、現在、恵庭湖という人造湖のある渓谷の手前で、荒涼たる盤尻という痩せ地であった。その何も無いところで、どうやって生きて行けたのだろうか。
 私は小学生の頃、朝早く一人家を抜け出して車を運転し、盤尻に滝を見に行ったりしていた。(お巡りさんに補導されそうになったこともあった。)酪農家の息子が友人で、同じ盤尻にいたが、その当時でも何もない風景の寂しさは、子供心にも切ないものがあった。よくあのような所を開拓したな、と思う。
 

 

 

   
 数年前、斉藤秀雄さんのことを書いた『嬉遊曲鳴りやまず』(中丸美薯)を読んで、弟さんが恵庭村の盤尻に牧場を開いておられたことを知った。
 その昔、亡くなった私の父が、恵庭で高名な江藤俊哉さんのヴァイオリンを聴いた時のことを幼い私に話してくれたことがある。戦前のあの田舎で、江藤さんなどの一流の音楽家が来て何故演奏したのか不思議だった。  

 

 

 

 

 それは、実は武彦氏が一九四一年に戦争に徴兵され、四十四年にビルマにて三十八歳で戦傷死した。慟哭した兄の秀雄氏が恵庭で、その追悼演奏会を開きたいと江藤俊哉さんなど引き連れて室内楽曲などを弾いたらしい。
 三月のまだ雪深い中、馬そりに乗った気鋭の音楽家達は、雪の轍に投げ出されながら盤尻の牧場に向かったという。会場は恵庭小学校の体育館だと記述されていた。私が通った小学校で慣れ親しんだ木造のそれであった。  
 竹下さんの奥様、信子さんは、武彦氏の奥様幸さんと一緒に、当日皆に履いてもらうわら草鞋を作って用意したという。  

「斉藤秀雄の生涯『嬉遊曲、鳴りやまず』」  中丸美繪著 新潮文庫
 

 

 

 信子さんは、当時駅前の集荷場まで、夏は馬車で、冬は馬そりで一時間かけて牛乳を運んでいたそうだ。彼女にとっての斉藤牧場の一年間は、どこよりも深い印象を心に刻んで、楽しい青春の一頁を飾るものだった。
 そこを巣立たれた信子さんが、斉藤夫人幸さんが雪の上に倒れて亡くなられたことを知ったのは、その後、武彦さんの戦死から五年後のことであった。
 
 それで、私も謎解きが出来たのだ。 何故、斉藤牧場が無くなってしまったのか。何年前からか、市役所や牧場関係者に斉藤さんの消息を聞いてみたが、全く手がかりが掴めなかった。それが今日初めて氷解したのだった。財産土地は五人の子供に分けられ、人手に渡って、この五、六十年の間に風化してしまったのだ。

 何か、はるか遠い無常を感じざるを得なかった。北海道の片隅で、市史にも載らない、市民が知りおうせない事件が起こっていたこと自体、不思議な感じがするのだ。  

  今日の日は何という日であろうか、と思った。  


 

 

 


自家製石窯パンを手に。晃朗氏は今年85歳、奥様信子さんとも大層お元気でびっくりする。頭も明晰、お体も強靭で、全国を飛び回っていらっしゃる。

 次に、私が口をついで、  
 「酪農といえば、まほろばが開発したエリクサーという浄水器の水を、牛乳に入れるとチーズが出来るんですよ。それを手伝ってくださったのが、十勝の新得に共働学舎という牧場を経営する宮嶋さん。彼は日本を代表するナチュラル・チーズのオーソリティーなんです。」

 すると、ご主人の晃朗さんが、  
 

 

 

 

 
  「ああ、彼のお父さんの真一郎君とは、東京の自由学園の一期生で同級生だった。」  

 「えっ、えっ・・・・・・」
 
 開いた口が塞がらないとは、このことかと思うほど、今度は腰を抜かしそうになった。  
 こんなことが、世の中にあるのだろうか、とさえ思った。  

 「宮嶋望君のことも、よく聞いていますよ。」  

 人生は奇縁と言うけど、このような偶然の重なることが、目の前で起こるのだろうか。  
  私は、つくづく人の世は縁の網で張り巡らされており、そして自分は人の縁に因って活かされている、生きている、とさえ思った。この広い世界のこの中で、皆互いに明かさないだけ、明かせられないだけで、どれだけ深い縁が織り成されていることか。

 

 

 


共働学舎で、宮嶋真一郎氏と望さん一家。若い、実に若い。こんな日もあったのですね。
 

 

 


 「袖振り合うも他生の縁」というが、本当にそうなのだ。ましてや夫婦になり、親子となり、家族となり、友となり、同僚となり、そして日本人となることはどれほど縁が濃いか、わからない。目の前の人は、自分の夫であったかもしれない、母であったかもしれない、子であったかもしれない。いや、きっとそうであろう。この縁には前世という別の人生がまたあったに違いない。
 これは宗教的というより、人生五十年を過ぎて感じる実感であり、印象でもある。人は、この一生で終わりであるとは思えず、先に別な人生を待っている自分がいる。


 生まれては死に、死しては生まれて、その生、その生で学び学んで、無限の向上の道を歩むものかな、と思われた。    

 祇園祭には辛い、この雨降り頻る古都の出会い。  
 遠く古に、想い耽った旅の駅を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 


 『不撓不屈』なる映画を、最終日、最終回に経理の社員と一緒に観に行った。  
 この主人公は「飯塚毅」なる、ある一人の卓越した税理士のドラマを描いたものだった。  
 

 

 


2006年6月全国一斉拡大ロードショー  原作:高杉良「不撓不屈」 監督:森川時久、主演:滝田栄、松坂慶子 
それはTKCと呼ばれる職業会計人向け計算センターの創設者が、国税局を相手に一歩もひるむことなく、自説を通した信念の物語である。
 
 実は、このTKCとのお付き合いは、昭和六十二年に始まり、今期で第二十期を数えるまでに、いつのまにかなっていた。人の薦めでTKC会員事務所の関与を受けたものの、当時は父ちゃん母ちゃん商売で、何でこんな立派な会計事務所に頼まねばならぬのか、と内心思ったものだった。中小零細企業であれば、みんな何とか適当に巧くやっているだろうに、このTKCは固いうえに固い、ちょっと融通が利かないな、と思うほどに事細かく、洩れる事無く、一点の不正も見逃さない、まるで税務署のような会計事務所なのだ。
 

 

 

 しかし、先代の加藤高正所長が税務署出身ということもあり、厳格な巡回監査は逆に、安心して全てを任せられるといったところがあり、それが長く続いている理由ではなかろうか。それで、TKC自体が国から信頼を置かれていて、その関与先はその余徳を戴いている。
 
 当初、何から何まで、全て家内と二人でこなさなければならなかった。給料計算も、釣銭用意も、毎日の帳簿づけも、とにかく寝る暇がないほどだった。  
 

 

 

 そのため、祖母の死ぬ目に会えなかった。祖母の危篤に一時実家に帰ったが、丁度次の日が給料日で、誰にも頼める者がいなかった。やむなく夜中帰って計算し、袋づめして朝を待った。その途中で祖母は、あの世に旅立って、逝った。親子兄弟皆揃う中で私だけが抜けていた。特に祖母にはかわいがられていたので、そのことを後々まで私は悔やんだ。
 そんな苦い経験の中、関与を受けて間もない頃、帳簿でなく一々の勘定科目や数字を伝票に書き写す作業があり、これには往生した。十円の経費も一枚の複写伝票が要る。こんな手間なこと、何故やらねばならんのか、と半ば憤りのように思ったものだ。

先代の故加藤高正所長。北海道税理士会会長も歴任され、飯塚毅会長とは昵懇の仲であった。大変お世話になって、今日を導いて戴いた。
 

 

 

 当時、入所仕立てのご子息(今の加藤恵一郎所長)が、何日もかけて残高合わせを手伝って下さった。しかし、これが現在の自社によるコンピュータ管理への万全なる準備・助走だったのだ。実はこの後、飯塚氏の先見の明たる慧眼に敬服することになる。
   
 

 

 


父業を継承し、明日の税理士界を担う恵一郎所長。今TVで「TKC全国会」のCMに出演されている。後ろには、飯塚会長の「自利利他」の額装が飾られている。
 この映画の筋書きの原点が、昭和三十八年十一月、飯塚会計事務所とその関与先数十社に対して一斉に税務調査が開始されたことから始まる。 法人税基本通達二六五(当時)を根拠として、関与先に指導した「別段賞与」が脱税疑惑の嫌疑を受けての調査だった。
 当時税法上合法な方法で中小企業を支援するために、飯塚氏が編み出したものであった。つまり、支給額を決めて従業員に賞与を支払った後、会社が借入れる、そして、会社が黒字に転換して儲かったときに支払うことにする、というもので、これがこの飯塚事件、飯塚疑獄事件の火種となった。今は当時と異なり、決算の時までに本人に金額を知らせ、おおよそ一月程度の内に支払うという条件での下で、未払経理が認められている。
 

 

 

 この中小企業の資金繰りと従業員への利益還元のために勧めていた節税対策で、これを認めない国税局と、飯塚氏は約七年に及ぶ想像を絶するほどの対立闘争を繰り広げることになる。

 戸惑う職員、おびえる関与先。その間の嫌がらせや、顧客の半数もの離脱。手足となった幹部職員の逮捕と辞職、どんどん追い詰められてゆく飯塚氏。しかし、この一人の揺るぎない信念と夫と父を信じる家族愛に支えられて、我が道を一を以って貫いて行く。

 相手は国である。しかも国税局という絶対の権威である。その国家権力を向こうに回して戦うなど、誰が見ても勝ち目はないのだ。闘いの渦に巻き込まれ、孤立無援の壁に追い込まれて行く。しかし、この不撓不屈の意思に次第に理解者が出て、天運が彼に味方して行く。
 

 

 


一人の徹底した悟境と学識は、世の流れを変える力を持つ!!
 

 

 


 昭和四十五年十一月十一日、飯塚事件の被告者達、部下四名はついに無罪判決を勝ち取った。逮捕以来四十九日の拘留、六年七ヶ月の長期に亘る公判審理の後、飯塚氏の税理士としての姿勢が全面的に肯定されての完全勝訴であった。  
 しかも、弁護士の強い勧めにも関わらず、国家賠償請求の訴訟を起こさなかった。その間の損失はいかばかりか測り知れない。「自利利他」の信念は無意味な泥沼の争いに背を向け、TKC(栃木計算センター)設立という前進の方向に舵を取った。老子の説く「報怨以徳」即ち、怨みに徳を以って報いたのである。

 万事八方塞がりのこれほどの窮地に追い込まれ、周りが離散する中、常人なら屈して諦めるだろう。しかし、飯塚氏はどうしてこの難関を踏破出来たのだろう。それは、若いときの悟りの修行に起因するのではないかと思うのだ。

 

 

 

 

 東北帝大生時代、那須山中の雲巌寺の植木義雄老師に不眠不休の参禅をして、遂に見性して大悟された。
 天地一杯に広がる我、死ぬことのない真我を認識したのだ。それで、絶対の自信、ゆるぎない自己を確立した。
 それは、孟子の説く「自らを反みて縮くんば、千万人といえども我行かん」という境地であった。それは生死を超えているが故に、如何なる権威や恐怖や誘惑に微動だにしない大山のごとき不動の信念だった。
 ゆえに、目の前に巨大な権力が立ちはだかろうが、これに敢然として立ち向かえたのだ。そして、ついにこの世の虚構を破ることが出来た。  

「自己探求」本当の貴方はどれですか。飯塚毅著 TKC出版
 

 

 


 生前、残念ながらお会いすることが出来なかった。しかし、世界を先導するドイツの税務会計を徹底的に学び、我が物にして取り入れた飯塚氏の風韻は、TKCの機構、人物などの処々に滲み出ている。三十年前、パソコンなど馴染みもなく、今のIT時代など想像を絶する時に、よくぞ進取の気性で基礎を築かれたと感謝するばかりだ。

 氏の著書は禅師の如く世を恫喝し、我々を叱咤激励する。そして、古風な禅学は古趣に耽溺し、杳として今風に馴染まないものだが、それをさらに凌駕し、最先端のコンピュータ経理を何処よりも先駆けて取り込んだその斬新な活眼。それは、真に古いことは、真に新しいことに通じるのだ。活溌溌地として、古くして新しい。古き我に徹したればこそ、より自在で新しき我が現れ出でたのであろう。

 飯塚氏の説く「利他の中に、既に自利が在る」という不即不離の悟りの世界がそこにあった。  
 自己とは何かを知ったとき、今の自己は何をすべきかを知る。経理の中に顕れた数字に、人間の有り様が隠されているとは…  

 今更ながら、数字に疎い私は、この経理の巨人の前では、うろうろするばかりだ。

 

 

 

 

* TKC全国会の基本理念である「自利利他」について、TKC全国会創設者 飯塚毅は次のように述べています。

 大乗仏教の経論には「自利利他」の語が実に頻繁に登場する。解釈にも諸説がある。その中で私は「自利とは利他をいう」(最澄伝教大師伝)と解するのが最も正しいと信ずる。  
 仏教哲学の精髄は「相即の論理」である。般若心経は「色即是空」と説くが、それは「色」を滅して「空」に至るのではなく、「色そのままに空」であるという真理を表現している。


TKC全国会創設者 初代会長 故 飯塚毅 先生

 同様に「自利とは利他をいう」とは、「利他」のまっただ中で「自利」を覚知すること、すなわち「自利即利他」の意味である。他の説のごとく「自利と、利他と」といった並列の関係ではない。
 そう解すれば自利の「自」は、単に想念としての自己を指すものではないことが分かるだろう。それは己の主体、すなわち主人公である。  
 また、利他の「他」もただ他者の意ではない。己の五体はもちろん、眼耳鼻舌身意の「意」さえ含む一切の客体をいう。  
 世のため人のため、つまり会計人なら、職員や関与先、社会のために精進努力の生活に徹すること、それがそのまま自利すなわち本当の自分の喜びであり幸福なのだ。  
 そのような心境に立ち至り、かかる本物の人物となって社会と大衆に奉仕することができれば、人は心からの生き甲斐を感じるはずである。


(会報『TKC』平成10年新年号より転載)
 

 

 

 

 


 

 

 


 十六歳の下の息子が

 「お父さん、お母さん、今晩『となりのトトロ』を観たらいいよ。」
  と、勧めてくる。内心珍しいこともあるもんだ、と思った。  

 「どうして?」と聞くと  

 「子供の気持ちが解かるからだよ」と答えた。  

 「でも、前観たよ」と別の番組を見るつもりでいたので、牽制したが、
 「また、観ると違って見えるよ」
と、言われ、妙に納得して結局の処、妻と一緒に「トトロ」を観るはめになった。  

 あのフンワカした古い森の精霊というか、お化けのトトロが子供の心をつかんで離さないのは何故かなと思った。画面一杯に飛び跳ねるサツキとメイの動きと言葉が、今までになく今の私の心の内側に感じられた。自分も一緒に動き回っているような一体感があった。  
 これは、確かに前と違った印象だ。 これが「童心の季節」と呼ばれるものか。  

 そこには、以前と違った私が居た。  
 そのとき、子供の心が、何か理解出来たようにも感じたのだ。 天真爛漫という言葉が、光のように、弾ける命の迸りのように周りに放射していた。

 あのワクワク、ドキドキした心の鼓動。今の自分の鼓動も、同じように脈打っていた。  

 何時も、浮遊した感覚。 このフアーと地を離れて空を浮いているような感じが、今の私にそっくりなのだ。  

 画面を観ていて、自分が映っているようで、面白かった。  

 そして、彼女らはトトロに出会うのだが。 それが私のエリクサーとの出会いや付き合い方にスゴク似ていて、それは、一体何だろうか、何処から来るのかと思ったほどだ。
 打ち出の小槌のように叩けば叩くほど、いくらでも不思議な答えが返ってくる。何時までも何時までも本当の姿を現さないで、人を面白がらせ、泉のように興味が尽きず、厭きさせない。

 

 

 

 


「となりのトトロ」アニメ絵本 宮崎駿/原作・脚本・監督 出版社名 徳間書店 価格 1,575円(税込)

 エリクサーは私にとって、「トトロ」そのものだ
 「ドラえもん」の『どこでもドア』のようにも思えるのだ。  
 きっと、生涯この玩具で遊んでいられるのかもしれない。いや、私が遊ばれているのだろう。
 
 映画は途中で、例の如く眠ってしまって、良い夢心地で、眼が覚めた。サツキもメイもトトロも私も一緒になって遊んでいる夢だった。
 
 

 

 


 家内に話すと「あなたは、天真爛漫だから、0‐1テスト出来るのよ、きっと。」と言われた。

 誉められているのか、子供扱いにされているのか。
 
 私を一番理解してくれているのは妻だから、きっと両方なのかもしれない。
 

 

 

 
 

 

 

 
 

 

 

 

 

2006年8月4日記

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