人生には、あとになって合点することがよくある。
バラバラな点が次第に線となり、遂には面となる。
点のうちは見えないが、面になって初めて、その意図する所が開けてくる。それには時が必要だ。
以前、「新月の木」の視察で白神山に分け入り、壮大なブナ林に新月伐採の道筋を探りに初めて秋田に渡った。
その秋田と言えば、芭蕉が『おくのほそ道』で北上を断念したという象潟がある。
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「俤は松島にかよひて、又異なり。
松島は笑ふがごとく、
象潟はうらむがごとし。
『象潟や雨に西施がねぶの花』」
壮絶なる日本海の荒波に打たれる厳しさを想った。
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秋田県横手。
空路50分の空港から南下すること一時間余。
そこは広い盆地に温暖な薫風を吹かせる日本でも有数な米処であった。
今回、まほろばオリジナル地酒「和魂(にぎみたま)」の「日の丸醸造」さんに視察を兼ねてご挨拶に伺い、佐藤譲治社長のご案内で、これもオリジナル味噌「へうげ(ひょうげ)みそ」の仕込みを取材するために「羽場こうじ店」に、さらに新しく醤油醸造の依頼に「石孫本店」を訪れた。
その上、前日北京から連絡が入り、家畜用乳酸菌製造の全容がほぼ完成したので、視察して欲しいと竃リ曽路物産の鹿野社長から秋田入りを要請された。何と、こうも好都合なことが世の中にあるものか、と思われたほどタイムリーな訪問だった。
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そして、行ってこそ改めて解かったことだが、みな一里四方の同じ街中にある。実は横手は日本でも稀に見る『醗酵醸造の街』であった。
2年前、「全国発酵食品サミット 横手」、昨年「発酵フォーラム 横手」が開催され、『全国発酵のまちづくりネットワーク協議会』が発足し、会長にあの醸造醗酵学の権威・小泉武夫東京農大名誉教授、副会長に五十嵐横手市長が就任された。
頻繁に「食と農」のフォーラムが開催され、さらに食品のみならず、産業廃棄物処理、環境保全問題も、積極的な発酵技術によって取り組みが行なわれている。
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当市は県の東南に位置し、見渡す限り奥羽山脈が白い雪を被って栗駒山系の伏流水を蓄え、日本海側には鳥海山が屹立、四方を連峰が囲繞する。
平地の約八割が農地、世帯の四割が農業者、稲作中心の穀倉地帯なのだ。さらに米から加工する「麹」の伝統技術の継承は、類稀なる「酒文化」を逸早く創出し「美酒王国秋田」の名を恣にして来た。
加えて手作り「味噌」「醤油」が、県内外に拠出する地場産業の太い根幹を形成している。
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横手は全国的に見ても、麹を中心とした食文化によって活性化してきた歴史のある街の一つである。
日本の麹の特徴として、米粒一つ一つに麹菌が入るバラ麹というものがある。
この特徴は世界を見ても 日本にしかなく、豊かな麹文化を築いた一つの理由と言える。 |
麹の歴史の古くは稲の稲霊(いなだま)に由来し、ここから麹菌を取り出し、バラ麹を作ったのが始まりとされる。
横手は米どころであることからも、このような背景によって麹文が栄えたものと考えられる。
今、発酵食品は様々な分野において注目されている。
人工に作られた物質と異なり、発酵によりできた物質は壊れにくいということも一つとしてある。
また、医学会でもガンの発生を抑える物質を生成するものとして発酵食品が注目されている。
発酵という世界は非常に面白い。よこて発酵文化研究所も麹文化に恵まれた地域という背景を生かし、 食品の機能を研究するような役割を将来担っていくことを期待したい。
顧問 東京農業大学 小泉武夫名誉教授
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古い商店街、横手市増田町の真ん中に、「日の丸醸造」と古い看板を掲げた商店があった。
「ここの何処に酒蔵があるのか?」
間口何間もない構えに、何気なく不安を抱いた。
ところが、佐藤社長に招き入れられたその奥には、宏大な酒造所と古格荘重なる蔵が並び隠れていた。
これが内蔵の凄さか、と思われほど、この一条の通りには何と三十もの古蔵が並んでいた。 |
築造百年という。
表向きは、ただの商家。一歩中に足を入れると、そこは唖然とさせられる別世界が開かれていた。
彼の老子は「吾聞之、良賈深蔵若虚、君子盛徳、容貌若愚(吾之を聞けり、良賈は深く蔵して虚しきが若く、君子は盛徳ありて、容貌愚かなるが若し)」賢者は才徳智能を隠して、容貌が愚かなように妄りに表さない。
老舗は品物を店頭に飾らず、奥に多く蔵して見掛けは手持ちがないようにする、といった古訓が頭を掠めた。
正にその通りなのだ。 |
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秋田名物「稲庭干饂飩」の佐藤養助商店が買い取ったという「漆蔵資料館」を初めとするその何れの蔵も、材は贅を尽くし、技は妍を競い、往時豪商の権勢の凄まじさを物語っていた。
その軒を連ねたメインストリートには、かつての銀行あり、鉱山や水力発電の富豪ありで、産業の集散地、県南の中心地だった。
しかし、今日ではその縁を偲ぶのみであった。
この通りを「町民の暮らしの歴史」「蔵がシック」と意と文字をかけて「クラシック・ロード」と名付け、旧市街の復興を願っている。
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その第一等の酒蔵としての老舗「日の丸醸造」。
その歴史を遡るに、元禄二年(1689年)現在の山形県最上から来た沓沢甚兵衛が創業。
約320年前のことである。
蔵名の「日の丸」は秋田藩主、佐竹公の定紋が「五本骨扇に日の丸」だったことに由来するという。 |
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明治40年商標登録済の日本で、唯一無二の酒銘でもあったのだ。
すでに明治42年、東北公論社募集の銘酒投票で第一位獲得。
その時から絢爛たる受賞歴の会社であった。
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大正時代には年間醸造数量五千石以上に達し、日英大博覧会にて一等金牌を受賞(大正2年)した。
何と一世紀前に世界に認められた蔵元だったことは驚嘆に値する。
そして、東北地方屈指の酒造工場となり、大正14年、株式会社に改組したが、昭和18年企業整備令により転廃の余儀なきに至り廃業。
それは全国の蔵元を襲った悲劇であった。
しかし昭和23年1月、譲治現社長の厳父、光男氏が基本製造石数三百石の認可を得て、三百年の伝統を5年越しで復活し、今日に至っている。
かの小泉先生とも交友が深かった。
横手盆地は古来、酒造好適の良質米を産し、一年の大半が雪のカーテンに包まれる栗駒山系の伏流水が、蔵内の井戸に注ぎ、仕込みの力水となった。
手造りの丁寧な造りと搾りをし、タンク貯蔵を避け一本一本ビン貯蔵、酸化して酒が傷むのを防いで入念に熟成させ、純米吟醸を中心とするふくよかで気品ある味わいを醸し出した。
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すでに訪れた時は、仕込みの全てが完了し、杜氏も去り、蔵内は閑散として残り香が穏やかに漂っていた。
案内された処々の仕事場には、懸命に働く残影が幻のように蠢く。
立ち上がる余香に清冽なる生酒の息吹が其処彼処に感じられた。
改めて来年の仕込み時期を逃さず再訪したいとの決意を刻ませた。
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思えば、十数年前、郷里恵庭での法事の席上、田舎にしては気の利いた地酒が並べられてあった。
そこに「生もと純米酒」と銘打ってあり、一献傾ければ、下戸の私ですら、その名状し難い酒格というものを感じずには居られなかった。
正に「名酒此処に在り」といった存在感である。
帰るやすぐさま、その蔵元「日の丸醸造」に電話をしていた。
そして、重ねるように、佐藤社長がまほろばを来店されたのには驚かざるを得なかった。
年にして3、4回は全国のお得意先を回る。
地元の業者でも叶わないことを易々と行ずる姿に、商道の鑑として猛省させられた。
聴けば、東京の大手信託銀行支店長の重責を捨て、故郷生家の家業に転身したるは、余程の決意と見る。
孜々として伝統の灯を消すまいとの覚悟は、あらゆる開発に手を染められている随所に見られる。
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早速、有機酒造米の純米酒を生もと造りで仕込み、私はその名を日本人の魂の故郷に還るを願い「和魂/にぎみたま」と命名。
それは、フランスの品評会に出展するはずだったが、商標の問題で断念せざるを得なかった。 |
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しかし、この「和魂」は、力量あり、清涼感あり、且つ濃醇、艶もありで、言う事が無い。稀に観る名酒であった。
私の知る限りの上戸の連中は異口同音にその旨さを絶賛した。
その中でも全国津々浦々の銘酒を飲み漁った友は、これを第一等に挙げた。
正に、その深みは、目を瞠るものだった。
まほろばでも随一挙げるとしたらこれを措いて他に無い。
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それは奥羽の水脈を滔々として囲い、北に玉川温泉の北投石を磁力として地盤鉱脈を連ねる横手盆地には、不思議な水力を有しているのか。
そして、酒、味噌、醤油の麹菌を初めとする酵母や微生物群が街中、田畑に浮遊しているのか。
そして米処として豊饒なる地力とその米の資質は他を遥かに凌駕するものだった。
この三拍子揃った、生まれるべくして生まれたこの酒蔵、この酒。
それは「蔵付き酵母」と言うより、「村棲み酵母」といった故里挙げての発酵菌群の為せる業だった。
それは正に地の利だった。
これには何れの国、何れの蔵も敵うべくも無い。地産地勝なのだ。
この四方八方、恵まれ過ぎている蔵は、地は天恵の地、人は天運の人でもある。
成るとして成らざる物はなかった。
その当然と言うべき証は、全国品評会に余す所無く顕れた。
平成に入ってからでも、全国新酒鑑評会金賞は九度、仙台国税局長賞は12回、国際酒祭コンテスト・ロンドン・東京コンクールで各一位等、数々の受賞歴は、既に明治年間から連綿として続いている。 |
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今この梅酒と共に、この漬け上げた後の梅肉を「まほろば」が『なごり梅』と名付けて販売する。
そのカリカリとした歯触りは、お茶請け、酒の肴、料理に、お菓子作りに、格好の素材に成る。
仄かな酒香は、アルコールの弱い方にも抵抗力を付けるに違いない。
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さらに近代的な酒造りは通常三段仕込みと呼ばれるアルコール度を増す方法で造られるが、昔ながらの一段仕込みで止めて、乳酸由来の個性的な酸味が特徴の生で味わう本来の酒の姿、米のヨーグルトを開発された。
昔の酒の特徴は、低アルコールと酸味に優れていて、量が飲めたという。
来季、それをエリクサー水で生もと造りをお願いし、『酒母・さかはは(仮称)』と名付けて、販売させて戴きたいと念願している。
この斬新で回帰的なアイディアは、佐藤社長の閃きの冴えがそうさせているので、むしろプロの杜氏さんの念頭には浮かばないものだ。
その道の玄人でないからこそ、囚われない自由な発想の新しい切り口で無限の可能性を拡げて行けるのだ。
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明治・大正期、秋田から北海道に開拓に渡った方は数知れない。
きっと道産子の中に、秋田の風土と人情気質を受け続けていらっしゃる郷土人が多いに違いない。
まだまだ道は長い。
その開拓精神と豊かな風土で培われた大らかな気性が、発酵の神によって益々育まれることを祈るばかりだ。
北海道と秋田を繋ぐ醗酵ロード、醸造道は、益々濃密に、いよいよ華やかに、ついに一体となって羽ばたかんとす。
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