まほろばロゴ   サイトマップ

Eメール
まほろばとは エリクサー&オリジナル オンラインショップ まほろば自然農園 レストラン
About Mahoroba まほろばとは


 
まほろばだより−トピックス−



 その夜は、酒蔵「日の丸醸造」さんの各種銘酒に盃を傾け、佐藤社長の話しを肴に華を咲かせ、次代を開く古式一段仕込み「酒母」の試作品に喉を唸らせた。

秋田の更け行く夜は、酒香と共に奥が深い。その夜、横手駅前で宿をとり、翌朝、社長と待ち合わせるべくJR十文字駅で降り、「羽場こうじ店」へと向った。

 今回の旅の目的は、「和魂」の「日の丸醸造」さん視察と、「石孫本店」さんへ醤油醸造依頼、そして「羽場こうじ店」さんに依頼している「まほろばオリジナル味噌『へうげみそ』」の製造現場に立ち会うことでもあった。

  訪ねて初めて分かった事は、日の丸さん・石孫さんとは同じ増田町で物の十分とはかからない、云わば一里四方の町内会であった近縁に今更ながら驚かされた。



.

 雄物(おもの)川に船が入り、京に上った北前船。

明治期、さまざまな産業経済が勃興した集散地、京文化がこの地区に拡がった。
『釣りキチ三平』で有名になった近隣吉野地区には、鉱山開発で、物・事・人・金が集まった。

清酒は金持ち、どぶろくは庶民と棲み分けられる中、その清酒を醸造出来得る裕福な土地柄だった訳だ。

 横手より古い市街の増田町には、五つの蔵元があったと言う。
歴史的にもこの町の経済を動かす財閥の人物が居た。
 
 それが「日の丸」の沓澤家、「勇駒」の石田家。
宝暦4年(1754)に初代・石田久兵衛が創業した造り酒屋「勇駒」は平成15年に廃業し、その「宝暦蔵」を保存のため羽場さんが取得、町再興に一役買い、市議として町政にも積極的に関わっておられる。

同じく「日の丸」を継承した佐藤家。
そのお二人とまほろばと繋がりある縁故が、不思議で興味深い。



 横手地方は米処の中の米処で雪深く、半年は雪に生活が左右されることなどから、小単位の各村に麹屋と呼ばれる家があった。

羽場さんの御祖父は、大正7年、旧駒形村内(現湯沢市)の他所で米を作りながら、現在地近くに在った麹屋の若勢として働き、後にこの経営を引き継いだ。

 昭和22年生まれの羽場さんは、物心付いた頃から、麹の作業、田畑の手伝いをして、昭和60年頃から経営の中心として現在を迎えられた。
米を作りながらの兼業、いかにも米処に相応しいお仕事であった。
奥様や二人のお子様との家内工業は、堅実に未来に引き継がれて、後世に伝える羨ましく頼もしい御一家である。

 

 
  振り返れば、何時頃からだろう、羽場さんの味噌と出会ったのは。

確か音楽好きの友人が、仙台の「ガネッシュ」という紅茶の通販会社で「喜助味噌」を扱っていて、それを紹介してくれたのが切っ掛けだった。
実は、そこの阿部社長さんが、羽場さんの妹さんの嫁ぎ先だった。

 
  その喜助味噌の旨さにはしばし唸ったものだが、それは多分に米麹を大豆の3倍量使っているからだ。
一度置いたら、瞬く間に店一番の人気味噌になっていた。
もう10年以上も前の話である。

 


 

 それからか、それに触発された5年ほど前。

農園で採れた無農薬大豆四種類、「鶴の子、黒、鞍掛け、ダダ茶」で超弩級の意味合いを含ませた「弩ミソ」を、まほろばで加工した所、大評判。
この旨さは格別だった。
 しかし、手前味噌の悲しさか、すぐさま底を尽いてしまった。
それでも、2年ほど加工は続いた。

大豆は狭い畑では、採算効率が悪く、枝豆の値で売らないと合わない。
安い乾燥豆では、広大な畑を、大型農機で栽培収穫しないとまかたしない(採算が合わない)のだ。
そんなこんなで、自家栽培の大豆は諦めざるを得なかった。
それと共に「弩(ド)ミソ」は幻の味噌となった。





 そこで昨年、有機の大豆を探して、毎年お世話になっている剣淵町の池田さんが創始した「いのちを育てる大地の会」に依頼して、「茶豆、鞍掛け大豆、青大豆、雪ほまれ(白)」。
そして余市の三友農産さんの抗アレルギー米「ゆきひかり」。
 

 これで、「まほろばオリジナル味噌『へうげみそ』」を「羽場こうじ店」に製造依頼したのだ。

ここは高価でも思い切って、「まほろばオリジナル塩『七五三塩』」を使うことを決意。無論最後の〆は、「まほろば淨活水器『エリクサー』」水を使ってもらう事だった。
その面倒な要望を、快く引き受けて下さった羽場さんは、内心「どうなるだろう?」と不安だったそうだが、まことに絶妙な味噌を造って下さった。

 



 無添加は無論のこと、熱殺菌しない「生みそ」。
しかも、熟成所を選んで、夏場には27度以上にしない努力もされている。
速醸みそは35〜37.8度設定で3〜4週間で出荷する。


本醸造は25度前後で止める。
甘さや香りは、温度が高いと飛んでしまい、温度を止めて、低温から長時間かけて、本熟させる。
急激に高温にすると低温・中温菌が発生せず、十全な蛋白質が分解されにくい。

 ところが、低温から高温に漸次移行すると、その温度帯に即応する菌が繁殖し、蛋白質の分解が木目細かく広範囲に行き渡り、複雑多岐に亘って味わいが深くなる。

そして、ほんのりとした甘い香りこそ、理想とされる。
一般市販の麹味噌は、味のバラつきを抑えて一定の品質を保つ為、酵母を添加するので、麹と大豆の旨味というより酵母の味になってしまう。

 
  羽場さんでは、周りの自然や工場内の蔵付き酵母が飛遊して、材料の旨味にさらに酵母が加わり、自然な円やかな熟成となる。

年により多少味が異なるも、それも自然の為せる業で良しとする。
それが自然の揺らぎ、ダイナミズムだ。恐る恐る口にするその味。
かつて食べたことの無い味わいは比類なき出来であった。

 

羽場さんは
「この味噌の依頼の時、我々の感覚ではない、想像したこともない。どんなものになるか心配だった。三種の豆は研ぐ時は均等に混ぜたが、黒豆の黒色が破れて全体が褐変するといけないから、別工程で蒸した」
と言われるほど、細心の注意を払って作って下さった。

 恐らくこのような組み合わせの味噌はかつてなかっただろうから、名前を付けるに一案を講じた。
茶聖・利休亡き後、侘茶の渋さ瞑さを一変させて、軽み・可笑しみを加えた武人にして数寄者・古田織部。

 後代、彼を「へうげ(ひょうげ)もの」と表した。
へうげるは、「瓢げる」とも書き、「おどけている」「飄逸」の意味もあり、芭蕉の「軽み」に通じることに由来して、これをいみじくも「へうげみそ」と名付けた。
これはたちどころに大人気を博した。
予定の製造量が底を尽きそうになり、急遽造らざるを得なくなったのだ。




 前置きが少し長くなったが、今回の仕込みは、相当梃子摺(てこず)った。

それは昨年の天候不順で大豆類が不作で集まらなかった為だ。「茶豆」「白大豆」「黒豆」「黒千石」「青大豆」の内、茶豆の収量が芳しくなかった。
茶豆の枝豆の旨さは、他に喩えようも無いほど群を抜く。
これを外して「へうげみそ」の旨味は出る筈もない。


 しかし、考えれば、実に贅沢な話だ。
豆の中でもこれほど値が張る物も無いからだ。
山形県の特産だが、他府県でも最近名を換えて栽培している。
だが、茶豆の味噌は余り聞かない。当然、値が割に合わないからだろう。
本来なら、「日の丸」さんの酒仕込みも含めて、3月までに視察見学に来る予定であった。

 だが、この材料集めに手間を取られて、とうとう杜氏さんも国に帰った4月過ぎの横手入りとなった。
幸いに、羽場さんは、通年仕込みをしているので、時期の難を越える事が出来た。

 そして、最後に、我がまほろば自然農園産の黒豆と茶豆が納屋に残っている、との報告を受けて、俄かに歓声を挙げた。
これを記念に混ぜることが出来る!との喜びは格別のものだった。
何か「画龍点晴」、一点の魂を強烈に吹き込んだように感じられた。  

さらに、前回と違った材料に、再びと配合比を決めるべく「0-1テスト」をせざるをえなかった。
大豆の多少の種類と生産者が変わるも、配分はさほど変わらないだろうと嵩(たか)を括っていた。

だが、結果は大幅に変り、さしもの私も、結果に不安が隠せなかった。
しかし、今日までこの信念で貫いて来た私は、再びとテストをしなかった。そして、その驚くべき成果を、後に述べる。



 鳥海山が一望のもと、奥羽山脈が周囲に連なり、近くは畑が取り囲む純農村風景の中に羽場さんの工場はあった。既に3日前から仕込みに入って4日で仕上がると言う。

麹室から出来て来た有機栽培「ゆきひかり」は真白い黴を一面に生やした麹箱を積み上げ、それを手入れ箱に集める作業をしていた。

麹は、いわゆるアミロースの高い米のうまさ如何に影響されない意外な面を持つ。
噛めばホンノリと甘く、良い出来で仕上がっているとの評。
噛んでも程よく、何かしら好い香りが立つ。
 
聞けば、麹菌に大吟醸酒を造る為の麹菌と味噌用を半々も入れている為、芳香が味噌を一層上品にすると言う。
大手企業は、自動製麹機で麹を製造する。
これは必ずしも良いとは言えない。



羽場さんは生きている状態を目にして作る。
育ち方を見ながら加減をする。
室内の置き場所による醗酵のバラつきを、手入れ(中入れ)作業で均等にする。 

目と経験と手、そして愛情の心、それが手作業の本質なのだ。
これは機械では決して生まれない。
何よりも麹の質が勝負でもある。
室の藁の菰、麹箱等などに家付き酵母が棲み付いている。
ステンレスには怜悧なその場限りの菌しかないのだ。



 奥では、既に蒸かした5種(産地7ヶ所)の大豆と先ほどの麹と七五三塩をミキサーで攪拌している。
そこに「仕込み水」とやらを入れる。
「その液体は、何ですか?」と訊ねると「エリクサー水です」と答えられ、大切に扱われたことに感慨深いものがあった。

 ちなみに、その混合大豆を試食してみると、コクといい、旨味といい、歯ざわりといい、こんな旨い豆があるものか、と驚き、佐藤社長と唸ってしまった。
帰り際、これを少し戴き、是非ともまほろばのみんなに報告方々、試食して感動を共有したいと思った。

きっと秋口に仕上がる物は絶品に違いない、とワクワクさせる、そんな期待が膨らむ「へうげみそ」揺籃前の風景であった。

 羽場社長が上のタンクを指差された。  「あそこに、送って頂いた浄水器があります」。  
最初何のことだか理解出来なかった。
そのタンクには水が張ってある。

その上に微かに見えるエリクサーが設置されてあった。
それは、内心、驚きでもあったのだ。
こんな面倒なこと、よくぞ引き受けて下さった! という嬉しさと感謝が込み上げて来たのだ。

 聞けば、1tタンク3基を、5時間ずつかけて満タンにするという。

「ああやって、井戸水を入れても、常温ではしばらくして鮮度が悪くなり腐ってしまうのです。 でも、エリクサーの水は腐らない! 水に含まれている成分で、混濁したり、香りに影響するから変化が心配だったんですが……」

と羽場社長が秘話を明かしてくださった。 

 
 
水の力。
乳をチーズに変える不思議力。

きっと味噌の発酵に威力を発揮しているに違いない。
乳と大豆の違いはあれど、同じ蛋白質。
そのアミノ酸チェーンを切る分解酵素を働かせる微生物が働く。
原料の大豆・米の資質、そして塩の如何、水の機能性、そして環境。
今回のご縁は、みな最善の条件が揃っていた。
 



 塩は七五三塩。
これも原価を云々したら使えない。
採算度外視で、オリジナルで纏めたかった。
この製造は私が担当。

およそ24種類の岩塩、海水塩、湖塩、焼き塩、海水他を混成する。
これも材料が全て揃わず、出発ギリギリで漸く完成した物だ。

 海水塩は魚に、岩塩は肉に合うというが、陸海両方の特性をブレンドした味わいは、絶妙かつ複雑で味わい深い。

羽場さんも、粗塩と精製塩では、自ずから成る物のたちが異なるので粗塩の自然塩を使うという。

 何らかのミネラルの働きが未知数の旨味を醸し出すのだろう、と。
贅沢といったらこれほど贅沢な味噌もなかろう。
これは、直販だから、値段を抑えられる。
卸などでは、なかなか採算が合うものではない。  

普通、塩分は10〜12%。そこを9%の超甘口に仕立てている。
三倍麹で9%は、大変難易度の高い管理、長い経験、名人技が必要となるのだ。
京都に白みそ(8%)があるが作って2週間で出荷し、醗酵させない。
それほど難しいのだ。

 そして、土地の利が物を言う。温度管理が失敗すれば、腐造菌の雑菌が諸味を汚染して酢酸を生成する、いわゆる酸敗が起こる。
昼暑くても夜涼しい(20度以上になることが何日も無い)気候が、三重麹味噌をここ横手に根付かせたのだ。

残念ながら、北海道は昼間の温度が不足なのだ。
地産池消しようにも、道内では経験技術力がなくコントロールが難しい。














 そもそも「三重麹味噌」自体、「庄屋味噌」と言われる位、昔でいう地主さんが貯蔵した米をふんだんに使って味噌を造った当地の歴史がある。
戦前は特定の商人、資産家だけの物で、昭和30年代、一気に拡がった。
しかし、この伝統製法は、秋田北部や、隣りの山形にも青森・岩手・宮城にも無いらしい。
 それはこれまで、横手盆地のみ災害飢饉が無く、米蔵が底を尽かなかった為に、許されて来た事だという。
勿論米処であるということは言うまでも無い。
そのために酒所としても全国筆頭の名を馳せたのであろう。
「へうげみそ」は、三重よりさらに3.5倍の米麹を使い、それは限界量のギリギリだという。
多く投入すれば良いと言うものではなく、糖化と塩分の鬩ぎ合いの絶妙な具合なのだ。

 岐阜の木曽路物産・鹿野社長に見本をお送りした所、「これほど素晴らしい味噌は見たことが無い!」とお褒めの言葉を戴いた。氏は、モンゴルにて日中合弁会社を開き、5カ国の世界認定を受けた有機栽培の大豆と米を栽培し、さらに厳重な認定工場で、味噌製造も手掛けておられる。

 半生状態で日本に輸入し、それを岐阜山中の老舗味噌蔵の杉樽桶で追熟させて送って頂いている。それが「生々みそ」である。
「へうげみそ」では甘いというお客様には、この「生々みそ」と「合わせみそ」にすると更に美味になる。
一度お試しあれ。

 ともあれ、佐々木ご夫妻の職人技と研究心、熱い志と長い実践力、深い愛情。
その賜物が、今日の実を結んでいる。
偏に、感謝を込めてお礼を陳べるばかりだ。

お二人の御存在なくして有り得なかった「へうげみそ」。
全国の消費者に代わって「ありがとうございます 」



 その翌日、横手から直接、湯沢の「石孫本店」に向った。
そこで「日の丸醸造」の沓澤さんと落ち合う予定であった。  

黒塀と漆喰壁の蔵、その瀟洒な昔造りの家構えは、それはもう、それ自体が重要文化財といった風格が漂う。
しっとりとした風情、落ち着いた外観は、すでに醸造その物を醸していた。









 ここ岩崎は皆瀬川のほとり、「秋田富士」の鳥海山を望む雄勝平野の東に位置していた。

その昔「出羽のくに岩崎」と呼ばれた頃より醸造業が栄えたのは、水質の優れた地であった為だ。

 入ると6代目孫左ェ門さん(耿一氏)のご主人は昨年12月まで前副市長の要職を担っておられたという。
今は社長である奥様の裕子さん。
通された茶の間には大きな神棚と仏壇が重厚な存在感で迫ってくる。
如何にご先祖を敬っているか。

 

それは、どこの家でも、同じ風であったが、ことに石孫家の繁栄振りは当初から目を瞠るものがあった。それでこそ、先祖代々の事業が何百年もの長い間継承されて来たのであろう。

その醸造の魂と言おうか、精神が綿々として流れている歴史の重さを今日ほど感じた日はなかった。





 初代孫左ェ門は、当地が酒処で醤油処に適することに着眼し、安政2年(1855)に創業、藩主佐竹公に献上して賛を拝し、基盤を確立した。

当時、家庭で柔らかめに仕込んだ味噌の液汁「たまり」が主流の調味料だったが、中央の文化流入と共に醤油が入り、それに初めて手を染めた事は時代の魁だった。 

明治44年には時の宮内省大膳寮より二代目孫左ェ門へ菊花御紋入り台付茶碗を下賜せられ、平成10年には、文庫蔵などの六つの土蔵が国の登録有形文化財として指定された。

土蔵の中には、大きな木樽が並び、石造りの麹室を抱えて、今でも現役の仕込みの場として使われている。



 二代目孫左ェ門の逸話に、

「或夜豫テ信仰スル観世音菩薩出現シ賜ヒ  
營業本意ハ仁義禮智信ノ五箇條ヲ守リナバ必ス繁昌シル
 ト諭サレタルヲ夢ミ即チ之ヲ取リテ商標と為セリト云ヒ傳フ…」
 

 2代目の夢枕に立った観音菩薩より「『仁義礼智信』の5箇条を営業の信条とせよ」と諭され、重さを量る分銅に『仁』の文字を入れる樽印を商標として考案したという。

「銭を計らず、心を計る」商道とは仁なりとする、いかにも信仰心深く、伝統を重んずる家風を偲ばせ、深い土地柄に思いを寄せるに足る。
 そして驚くべき工房の内部。 未だに、小麦を炒るのに、石炭を燃して熱源にしている。

今でも毎年、釧路から一貨車取り寄せているという。
同じ温度を要するに別にガスでも石油でも電気でも良い訳だ。
合理的な考えでは手段を選ばない。

だが、その熱源によって仕上がりが微妙に違う。
微かな味蕾には、それは鋭く反応し感性を揺るがす。
実はその微かな違いにこそ大きな違い、それが長い歴史を繋いで来た因とも言えるのではなかろうか。

そして、その熱源一つを変える事で、あとの工程全てが変わってしまう危険性も孕んでいるのだ。
そのチョットした心変わりが油断となって、大きな破綻に繋がる事は、昨今の企業の浮沈劇をみても肯ける。

 麹を醸す石室の温度を一定に保つ為、昼夜を分かたず人手で世話する。今ではほとんどがコンピューター制御で衛生管理が徹底している。

しかし、その石の膨大な数の多孔質の穴にはそれは天文学的な蔵付き酵母が百年以上の歳月を経て棲息している。これがこの蔵の活ける宝でもあるのだ。


高さ2メートルを越す木桶に諸味を仕込み、四季折々の移ろい行く気象を注ぎ込むように櫂棒で攪拌を絶えまず続ける。

 麹室の保温をする埋み火には、何と今でも木炭や稲藁!
蒸米を広げて冷ます時には、萩の枝で編んだ莚! 

伝来の木桶ばかりでなく道具の一つ一つに、文化や技術を伝える石孫さんの財産が宿り精神が籠っている。
一から終わりまで、手作業。
これには脱帽せざるを得なかった。

 案内されたすべての作業場は、懐かしさのレトロで満ち満ちていた。
昭和の子供時代、いやもっと古い明治大正世代の雰囲気が漂っていた。
古風な物に惹かれる骨董好きの私にはたまらない世界、しばらくこの蔵に暮らしてみたい衝動に駆られるほどだった。

ここで、醤油を作ってもらったら、どんなにか、理想的な物が出来るであろうかと想像し興奮した。
「古醤」以来、ロットの問題でなかなか製造が叶わなかったまほろばでは、是非オリジナル醤油が欲しいところだった。

 出来れば、「へうげみそ」と同じ素材の混合有機大豆と小麦、七五三塩、エリクサー水で独創的な醤油を作りたかった。ところが、残念な所、仕込み桶が無かったのだ。

樽が皆、塞がっていた。
何とか、そこをどうにか出来ないものか。残っている木桶が何処かにあるまいか。
それがあれば、どうにか置いて下さるかもしれない。
それを一縷の望みとして来冬、仕込みが叶うことを切に祈りたい。

 そして、気高い奥羽山脈と鳥海山に囲まれ、皆瀬の川風に吹かれ、温暖湿潤の恵まれた気候。
微生物にとって、ここは極楽のような別天地であるだろう。
ここを離れ難く、去り難い。
微生物たちの古代の記憶、古生の細胞。その渦巻くミクロの世界では、生々転々として生命が棲み続け、増え続けているのだ。
そうでなければ、これほどの多種多様な発酵食品が、横手から生まれることは無かったはずだ。  

祖先を敬い、伝統を重んずる魂が、綿々と継ぐ横手。  
醗酵醸造の古き街、横手。  
今、ここは、日本人の魂を揺るがす村、記憶を呼び覚ますふるさととして注目されるだろう。

 


 








                          →過去の記事一覧

トップに戻る
トップページへ
まほろばとは
まほろばの商品構成について
仕入基準とO-1テスト
小国寡民
会社概要
社長ブログ
イベント
まほろばだより
まほろば主人から
折々の書
健康コラム
ココが知りたい
トピックス
小冊子のご案内